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伯爵と少女

その後数日、事件の後処理で伯爵の城はいつになく忙しかった。

 

伯爵は胃の痛みに耐えながら、男爵の罪を訴えるため、帝都に向かった。馬車の中で伯爵は男爵に動機を問いただしたが、彼らを愛したかったから、という以外の答えは得られず、後は司法当局に任せることにした。

 

一方、伯爵が帝都にいる間、ジーナは執事から危険な行動について説教され、文字の練習がてらに反省文を書かされたあと、護身術の訓練を受けさせられた。執事をはじめ、伯爵の使用人には軍人やコサック出身で、武術に長けたものが多いことをジーナは知った。伯爵の父が若い時には度々戦争や反乱に駆り出されることもあったという。ジーナは伯爵が戦場で生き残れるとは全く思えなかったので、なるべく領地の平和が続くことを願った。

 

帝都から憔悴しきった伯爵が帰ってきたのは、一週間後のことだった。ジーナが発見した日記や伯爵の爵位、親族たちの協力や権力闘争の助けもあって、男爵の罪は立証できそうだ、と伯爵はジーナに伝えた。ジーナが姿を消した後、意識を取り戻してすぐ、伯爵は伝書鳩で帝都に男爵を糾弾する手紙を送っていた。宮廷や司法機関に伝手を持つ男爵を裁かせるために、父が亡くなってから今まで連絡も取っていない親戚や、父の友人にも協力を頼む手紙も、書かなければならなかった。早くジーナの救出に向かうために、読み書きができる使用人に代筆させたが、手紙を書かせることすら伯爵には苦渋の決断だと知っていた執事は、彼の頼みを聞いて心底驚いていた。

男爵の地位と最近の情勢を考えて、死刑ではなく終身刑が一番重い罰としても与えられるだろう、との見解も伯爵は添えた。何十人と平民や貴族を殺した男爵には軽い罰だとジーナは思ったが、彼が死んだところで殺された者たちの魂が救われるとも考えていなかった。ジーナは男爵に改悛も何も期待していなかった。ただ、彼が野放しにされないことに安心し、少し帝国の司法制度と伯爵を見直した。

 

対して、レーシャは男爵への処遇に怒っていたが、伯爵に宥められた。彼女は伯爵に何度も頭を下げてお礼し、落ち着いたらまた贈り物を献上しに来ると言って聞かなかったが、身なりが整った彼女に近づきたがらず、目も合わせられない伯爵は、その必要はないと説得を試みていた。レーシャは今度は負けないで父と戦うと勇まし気な様子で実家に帰り、城は落ち着きを取り戻した。執事が護衛用に雇った村人たちは、給金の高さと待遇の良さに感動した彼らの望みで雇い続けることになったため、幽霊城のようだった城は少し賑やかになり、幽霊たちが宴会を開いていると噂されるようになった。

 

 

 

しばらく気塞ぐ暇もなかった伯爵は、ようやく自室の寝椅子に横になることができた。ジーナはペチカに薪を入れながら、忙しくて言えてなかったことを伯爵に伝える。

 

「来られないものと思っていたので、あのような行動に出てしまいました。お手を煩わせまして、申し訳ございません。」

 

正直、ジーナにとっては男爵の豹変よりも伯爵が来たことが意外だった。

 

「もうあんな危険な真似はよしてくれ……でも、エリクを、私を助けてくれてありがとう。」

 

伯爵は、オリエントの寝椅子から身を起こし、ジーナに頼み、礼を言った。エリクはあの後、修道院に自ら入り、変わらず男爵を愛していると、彼から伯爵に来た手紙に書いてあった。伯爵はエリクから男爵を奪ったことに罪悪感を抱いたが、少年の身が無事であることを、何より願っていた。

 

「私は貴方に仕える者ですから。」

 

主人の身を守ることは従者として義務だと認識しているジーナは、薪をくべ終えると、伯爵の方を振り返って、そう言った。伯爵は、エリクとジーナの問答の際に垣間見えたジーナの苦労を思い出す。領主や貴族としての義務感から生じる申し訳なさと、イヴァン・スヴェトスラーヴィチ・ズヴェトフスキー個人のジーナへの親愛や慈愛の心から、伯爵は骨ばった少女の体を抱きしめた。

 

「君が暖かい部屋で眠るのに、本当は私に仕える必要なんてないんだ。」

 

「…私は、貴族ではありませんから。伯爵様の小姓として働いているのは、

私の望みです。…それでは、いけませんか。」

 

ジーナはただ、伯爵の庇護の下、この城で暮らすことはできなかった。いつ解けるか分からない魔法を不安に思う気持ちに加え、彼女にも平民としての、ジーナとしての自尊心というものがある。伯爵の優しさにつけこんでのうのうと寒さから逃れ暮らすことは、無為な貴族と変わらない、と彼女は思っていた。

 

「君がそういうのなら……。情けないことこの上ないが、我が城は今や君なしでは回らないのも事実だからね。君の負担が減るように、私も立派な領主になる様努力するよ。君のように困っている領民を、救えるように。」

 

「それは、皆様が喜ぶでしょうね。」

 

「今までも、そう、思ってはいたんだがね…自分が嫌になるよ。……ところで、君の、弟さんと妹さんは……。」

 

「……弟と妹たちは、親戚の家に引き取られたので、…行方は分かりません。私は、一人、逃げただけです。」

 

滅多に感情を映さないジーナの瞳に影が差したのを見て、伯爵は俯いた。

 

「そうか……。国内にいるのなら、見つかるかもしれない。探してみるよ。」

 

全く根拠のない伯爵の言葉に、ジーナは無言で頷いたが、晴れない顔をしていた。伯爵はそれを、自分への信頼のなさのためだと受け取った。

 

「あの…言いつけられている別の仕事に、向かわなければならないのですが…。」

 

彼女の背から腕を離さない伯爵に、ジーナは暗に離してほしいことを伝えた。

 

「あ!そうか、すまない……。……!!……あれ、私は、いつの間に君を……!」

 

「男爵から守ってくださった際も、抱きしめられていましたが。」

 

「!!!!私は、なんということを……!ごめん、あの時も、君が心配で…。」

 

伯爵は、自分より一回り以上年下の少女を抱きしめていたことを自覚し、ばっと手を離して、冷や汗をだらだらと流し始めた。エリクと違って、ジーナは彼に何の感情もないと明言しており、愛人でもないのだ。女性のジーナに触れられたことは、彼女が中性的な見た目で、男装しているからだと、この時伯爵は気にしていなかったが、エリクや愛人だった少年たちのことも抱きしめたことなどないことは忘れていた。

 

「大丈夫です。分かっていますから。では、失礼します。」

 

解放されたジーナはそう言い残して部屋を退出し、伯爵は一人、彼女が「何を」分かっていると考えたのか、彼が少年や少女が好きな人間だと、あながち否定はできないが、誤解されたのではないかと悩んだ。

 

 

 

 

その夜、ジーナは寝台の上で、勝手な行動をした小姓の自分を、伯爵が命を賭けて救いに来たこと、あまつさえ礼を言ったことを考えていた。不可解な伯爵の行動を、以前のジーナなら疑っていたが、伯爵はもう、そういう性格の人なのだと、ジーナも何となく分かってきていた。伯爵に抱きしめられた時、死人のような伯爵が存外暖かかったこと、安心感に似た心地よさを感じたことを不思議に思いながら、ジーナは勝ち取った温もりの中で眠りについた。

 

一方、伯爵は、ジーナを拒絶反応なく抱きしめられたこと、男爵に乱暴されそうになった少女を、父でも兄でも恋人でもない自分が抱きしめてしまったことをまた思い出し、自分を責めた。そして、ジーナに嫌われてしまわないか、またベッドの中で悶々としながら眠れない夜を過ごした。

18
愛しい人

負傷した男爵は執事が連れてきた村の男たちによって取り押さえられた。男爵は伯爵の城の地下牢に閉じ込め、明朝、帝都の役人の到着を待って、共に帝都まで連れていくことになった。貴族の男爵を正式な手続きなしに地下牢に置くことに伯爵は難色を示したが、男爵を伯爵から隔離し、厳重に見張りたい執事の強い主張に、伯爵は折れた。男爵は朗々とした様子で、臆病な君があんな行動に出るなんて、感心したよと、伯爵に笑いかけ、馬車の中に連れて行かれた。ジーナを嬉々として甚振ろうとしていた時も、社交界で明るく振る舞う時も変わらぬ態度に、ジーナは男爵の恐ろしさを感じた。伯爵は、複雑な表情を浮かべ、雇った男たちに男爵を逃さないように見張れとだけ命令し、男爵に言いたいことは山ほどあったが、飲み込んで踵を返した。

 

「アレクサンドル様!!!」

 

目を覚まし、ことを把握したエリクが、男爵の名を呼んで、伯爵には目も向けず馬車に駆け寄っていく。男たちの間をすり抜け、エリクは馬車に擦り寄ると、男爵が窓から頭を出す。

 

「エリク、すまないね。君とはもう会えなさそうだ。」

 

「そんな…嫌です!」

 

エリクは涙を流しながら男爵の首に手を回し、彼に口付け、男爵もそれに答える。兵士たちが彼らを引き離そうとするが、伯爵が止める。伯爵は二人の抱擁を寂しげな目で見つめ、ジーナは無関心な様子で眺めていた。

 

「さようなら、エリク、愛しているよ。」

 

男爵はそう言うと、エリクを遠ざけ、窓のカーテンを閉めた。馬車に乗り込んだ執事が出発を命じ、御者が馬をむち打ち、馬車は伯爵の城に向かって発った。

 

馬車が向かった方向を見つめながら、途切れない涙を流し続けているエリクに、伯爵は声をかけられず、佇んでいた。嗚咽がやむと、エリク自身が伯爵の方に向かって、歩いてきた。美しい顔の彼に涙で濡れた怨嗟の瞳で見つめられ、伯爵は思わず尻込みする。

 

「何故ですか。」

 

エリクは、静かに聞いた。

 

「何故、アレクサンドル様を僕から奪うのですか!!!貴方は、何も与えてくださらないのに!!!」

 

伯爵に崩れかかるような体勢で、彼に泣きつくエリクを、ジーナが剥がしに動こうとするが、先に伯爵が口を開いた。

 

「君から大切な人を奪って、ごめん。でも、彼は多くの人の大切な人を奪ったんだ。それを私は許せない。裁かせなければいけない。」

 

伯爵は、いつも右往左往する瞳で真っ直ぐエリクを見つめ、少年を諭すように言った。

 

「そんなの……そんなの、どうだっていい!!!僕には、あのひとが居れば……。」

 

エリクの発言に、伯爵は少なからず衝撃を受けたが、献身的に男爵の愛を求める彼に同情もし、彼の肩にそっと手を添えた。しかし、エリクは伯爵の手をはねのける。

 

「同情するなら、アレクサンドル様を解放してください!」

 

「エリク、それはできないよ。彼は己の快楽のために人を痛めつけて、何人も殺したんだ。」

 

「あのひとが殺人鬼だってなんだって、僕を愛してくれるなら、それでいいんだ…!」

 

「エリク…、」

 

悲痛な叫びを上げ、エリクが伯爵の大きくて軽い身体を突き飛ばす。よろめく伯爵を支えたジーナが、彼に冷えた声で言う。

 

「男爵は、貴方のことも殺そうとしていましたよ。」

 

「……それでも、いい。あのひとに愛されて殺されるなら……。」

 

エリクは、しゃがみこんで、泣きながらも、そう答えた。伯爵は、男爵に殺されることすら願うエリクを憐れみ、自分が彼を満たせないことを悔やんだ。

 

「男爵の貴方や、殺した奥方様や前の愛人、平民たちへの感情は、愛と呼べるのですか?彼はただ、自分の性的衝動や嗜虐的思考を愛と呼んでるだけでは?」

 

ジーナがあまりにも冷たく、エリクに向かって言い放ったので、伯爵は目を丸くした。彼女としては、純粋な疑問を言葉にしただけだったのだが。

 

「ふ…あはは!君のことは知らないけど、君、伯爵様…イヴァン様のことが好きなわけでもないんだろう?」

 

「イヴァン様は尊敬する主ですが、貴方の言う意味では好きではありませんね。」

 

質問を質問で返されたジーナは、素直に返す。伯爵がすげない答えに傷ついていないか少し不安に思ったが、尊敬する、と言われた伯爵はむしろ当惑しながら嬉しそうにしていた。

 

「ふぅん。君、今まで恋人とか居たの?誰かを愛したり、愛されたりしたことは?」

 

何故か余裕を取り戻したエリクは、ジーナに問いかける。ジーナは村娘としては、結婚してもおかしくない年齢に差し掛かっているが、恋人など居たこともなかった。他の村人ともあまり交流せず、毎日自分と弟妹たちの命を繋ぐのに精一杯で、恋だの愛だの考えたこともなかった。愛、という言葉を周りで聞くことも少なかったし、ジーナには全く縁遠い言葉だった。

 

「ありませんが。」

 

全く感情のこもっていない声で答えるジーナに、伯爵は衝撃を受けた。ジーナの答えは、恋人がいなかったというだけでなく、誰からも愛情を受けていないと言うものだ。伯爵は、義母や義姉からの歪な感情を愛だとは思っていないが、亡き父や、こんな自分を見捨てない執事や幼少期からの使用人たちからは愛を感じていた。自分を愛してくれる人も、愛する人もいない環境で、自分は何日生きれるだろうかと、伯爵は思った。

 

「そう…そうだろうね。そんな君に、何が愛かなんてわかるのかい?君には、僕たちのことなんて、分からないよ!!」

 

エリクは、ジーナを嘲るように言った。自分と同じ年頃だが、ただ一人の男に身を捧げているエリクを見て、ジーナは納得したように答える。

 

「確かに、貴方の言う通りでしょうね。私は愛というものを知りませんから。」

 

ジーナの答えに、エリクは拍子抜けする。彼は、彼女に感情があるのかも疑った。

 

「君、本当に、恋も愛も知らないんだね。」

 

「ええ、それよりも、私や下のきょうだいの明日の命を思う生活でしたから。」

 

ジーナのことを貴族の子息だと思っていたエリクは、彼女の答えに疑問符を浮かべたが、さらに問う。

 

「いくら食べ物があって、富があって、誰にも愛されず、誰も愛さず、君は生きてるって言えるの?」

 

「そんな暮らしをしたことがないので分かりかねますが……私は今、暖かい毛布の下で眠る時、毎日生を感じています。」

 

エリクは、彼女の言う意味が、よくわからなかった。彼は男爵と出会うまで、毎日暖かい毛布に包まれて眠っても、自分と屍の違いが分からなかった。男爵の腕の中で眠る時が、彼が一番生きていると感じた瞬間だ。

 

「……君のおかげで、自分の幸福さが分かったよ。僕は、もう会えないけれど…アレクサンドル様と出会えて良かった。彼が誰の命を奪って、誰を泣かせていたってどうでもいい。」

 

「お役に立てたようで、よかった。」

 

エリクが相対的に幸福を感じるのに自分の不運をダシにされたジーナだが、十分今の自分は幸福だと思う彼女は、ただ彼が伯爵に危害を加えそうになくなったことに安堵した。当の伯爵は、ジーナの今までの人生を思って、涙を浮かべている。

 

「君って………。……僕は、君も愛を知って苦しむことを、願っているよ。」

 

エリクは、呪いの言葉を口にして、主のいない男爵の屋敷に戻っていった。

17
シャンパンを飲む者

「動くな!」

 

突然地下室に響いた声に、男爵が動きを止めた。男爵の身体が邪魔でジーナからは声の主が見えなかったが、いつもより通った大きな声が、誰のものであるか聞き間違えようがなかった。しかしジーナには、まさか臆病な彼が殺人鬼の屋敷まで乗り込んできたとは信じられなかった。男爵が振り返ると、仄暗い蝋燭だけで照らされた暗い部屋に、幽鬼の如く儚く不気味で、青白くひょろ長い男の姿が浮かび上がる。その男、伯爵は、かたかたと腕を震わせながら小型のライフルを構え、唇を血が滲むほど噛み締め、ジーナに跨る男爵を薄い青灰色の瞳で精一杯睨みつけていた。

 

「ジーナを放せ!でなければ…撃つ!」

 

伯爵が再度の警告を叫ぶ。先程発した言葉との矛盾には、気が動転している彼は気づいていなかった。対して、伯爵の目を見つめ、楽しげに微笑む男爵は余裕にあふれていた。

 

「イヴァン…まさか君がここに来るなんてね……君も混ざって、一緒に楽しむかい?」

 

「馬鹿なことを言うな!」

 

あまつさえ伯爵を誘う男爵に、伯爵は更に声を荒げる。ジーナは、いつも弱々しく温厚な伯爵が怒気を孕んだ声を発するのを初めて聞いたな、と男爵の動向を注視しながら思った。

 

「そうか、そうだろうな、君はエリクにすら触れられないのに、彼女に触れられるわけもない!哀れな男だ。」

 

男爵は怒る伯爵にますます愉快になり、彼の心の傷を抉る。

 

「うるさい、早く、ジーナを、」

 

「君の義母や義姉のように、君のことも可愛がってあげたかったんだが……君が頼み込むなら、エリクと私の愛の営みを見せてあげても…いや、まずここでジーナと睦み合うのを見たまえ。君の不能も治るかもしれない。」

 

「、なぜ、そのことを……いや、そんなことはどうでもいい……世迷言を言っていないで、彼女から離れろ!本当に、う、撃つぞ!」

 

帝都の貴族とも繋がりが多い情報通の男爵は、伯爵の過去も知っていた。執事や古い使用人しか周囲には知るものが居らず、領民には勿論明らかにしていない過去を男爵が知っていることに伯爵は激しく動揺し、銃を持つ手をさらに震わせる。友人だと信じていた男爵が殺人鬼であったことに加え、伯爵のことを蔑み、エリクとジーナを利用して彼を侮辱しようとしていることにも伯爵の心臓は軋み、悲鳴をあげている。しかし、ジーナを奪わせるわけにはいかないと、伯爵は自分を鼓舞し、男爵への脅しとして銃の引き金に添えた指に力を込めてみせる。

 

「はははっ!狩りにも行かない君が、愛人を寝取られ決闘もしない君が、私を当てられるのかい!?やめておけ、無駄なことだ!最悪、暴発して君が死ぬかもしれないぞ?」

 

男爵は臆すことなく、伯爵を笑う。実際、伯爵は自分の銃の腕前に全く自信がなかった。子供の時父親に撃つ練習をさせられて以来、銃身を握ったこともなかった。その頃は、大きな銃声を聞くだけで涙目になっていた。

 

「く、…」

 

伯爵の頭の中を、様々な最悪の想像が駆け巡る。男爵から外し、返り討ちにあう自分、流れ弾に当たるジーナ、暴発して自爆する自分。

 

「伯爵、様、いいから、逃げて…」

 

しかし、ジーナの声を聞いて、伯爵は思い出す。今まで、ジーナの忠告も聞かず男爵の仮面の下から伯爵が目を背け続けた結果が、彼女の身を危険に晒してしまった。ジーナを今、男爵から救うためには、彼はもうどこにも退けないのだ。

 

「ジーナ……!…君のことを信じなくて、すまなかった………エリクのことも…私の落ち度だ…君をこんな、怖い目に合わせて……だから、私は、もう目は背けない!!」

 

 

伯爵は引き金を引き、乾いた銃声が地下室に反響した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして案の定、伯爵の弾丸は外れた。

 

しかし、男爵の脚を掠めたそれは、ジーナが体勢を立て直すのに十分な一瞬を与えた。バランスを崩して倒れかかってきた男爵にジーナは頭突きを食らわせ、枷にはめられた手で男爵の手から武器を奪おうとする。その隙に、駆け寄った伯爵が至近距離で再び引き金を引いた。今度こそ、男爵の腕と脚を弾丸が貫く。伯爵が持っているライフルが、連射式の高価なものだと男爵は知らなかった。崩れる男爵を押しのけ、伯爵はジーナの枷と鎖を外して解放する。

 

「ジーナ……!良かった!!!怖い思いをさせて、本当に、ごめん……!」

 

伯爵はジーナを、華奢な彼にしては強い、精一杯の力で抱きしめ、ぼろぼろと安堵の涙を流した。少し息苦しさを感じながら、慣れない温もりの中ジーナは、いえ、おかげで助かりました、と呟く。同時に、台の上にある、男爵がうずくまる際に落とした短剣(キンジャール)を伯爵の背に腕を回しながら拾い、立ち上がりそうな男爵に向けた時、

 

「イヴァン様!ご無事ですか!?全く、一人で行かれるなど、このような時に限って……!」

 

と、執事の声が階上から響き、伯爵が雇った男たちが階段から降りてきたのを見て、キンジャールを捨てた。

16
捕食者

背中にあたる固く冷たい感触で、ジーナは目を覚ました。暗くて何も見えない中、刃物を研ぐ音だけが響いている。ジーナは全身に力を入れてみて、まだ四肢があることを確認する。

 

「ん?起きたかい?」

 

ジーナを昏倒させ、ここに連れてきたのは、ジーナの予測通りの人物だった。彼はまるで、眠りこけた少女を起こすような優しい声色で、話しかける。男爵が蝋燭をジーナの側に置いたので、暗い空間に彼の顔が浮かび上がった。彼はいつもと同じ高貴で陽気な表情を浮かべているが、いつも伽藍堂な瞳は狂気の熱を孕んでいる。蝋燭の灯りに、男爵が手にもつ、両刃の鋭い短剣(キンジャール)の切っ先が鈍く光る。

 

男爵は、無反応のジーナの頬を撫でながら感心して呟く。

 

「君は強いね。みんな、剣や斧をちらつかせただけで、泣いてしまうのに。そんな君が、どう泣き喚くか実に愉しみだよ!イヴァンは目が高い。エリクを先にと思っていたけど、彼は従順で、もっと私を信じきってからの方が面白そうだから、君を先にしよう。」

 

ジーナをこれからいたぶる愉悦に浸っている男爵に、いつもと変わらぬ冷たい視線を送りながら、ジーナは抑揚のない声で疑問を聞く。

 

「あの頭蓋骨や服は、彼らのものですか?何故、取って置いているのですか。」

 

「ああ…みんな、大切な思い出だからね。手に取るだけで思い出すよ、彼女や彼との甘い時間を。この部屋で見せた恐怖の表情と鳴き声をね。」

 

男爵はここで起きた惨劇を思い出しながら、うっとりと、甘い顔で微笑んで答える。機嫌がいいからか、これからもう日の目を見る予定のないジーナには何を話してもいいと思ったか、男爵はいつにも増して饒舌で、鼻歌まで歌っている。

 

「何故、殺したのですか?」

 

ジーナは奇妙な男爵の様子を観察しながら、一番分からなかったことを聞いた。すると、男爵は首を傾げ、考えたこともない、といった様子で数秒考え込んでから、口を開いた。

 

「何故…?そうだねえ……気持ちいいから、かな?段々冷たくなる身体を感じるのも、最後の絶叫を聞くのも、友人や恋人を想う涙を見るのも、最高に興奮するんだ!!やめてと泣いて懇願する子もいれば、最後まで抵抗して生に執着する子も……特に、若い子はいいよ、反応がいいんだ。」

 

快楽を思い出して笑う男爵を見つめるジーナの目は、何の情動も映さない。彼女にはさっぱり男爵の気持ちは理解できなかった。ただ、男爵は猟奇的な趣味の人間だったのか、とだけ、無感動に思った。ジーナは、怒りに震えるより、彼らの無残な最期に同情した。特に、自分と近しい農民の子供たちに。しかし、今のジーナも彼らと同じように、男爵に切り刻まれる寸前にあるものの、不思議と恐怖は湧かなかった。

 

(男爵が身体を撫でてくるのは不快だが……どこかで予想していたからだろうか?しかし流石に腕を切り落とされたら、叫んでしまうかもしれない)

 

男爵に殺された人間は、彼と偶然にも接してしまった不幸のために、嬲られ、殺されたのだ。男爵が権力を濫用してここまで多くを一人で殺していたのは異常事態だが、貧しい階層の人間が突然不幸に見舞われるのは珍しい話でもない。伯爵の父、前の伯爵が死んで、彼の寡婦が実権を握っていた時には、相次いで村の少女が消えた時期があったらしい。しかし、犯人は見つからなかった。農奴の命などそんなものだと、皆言っていた。彼らには怒る気力も残っていなかった。平民の、財もない女性が貴族に無体を働かれたとして、ごく稀に、庶子を養えと主張する猛者はいるが、大抵は泣き寝入りだ。ジーナもそんな女性たちや、森の中に無残に転がる死体を見てきた。だから、ジーナも、自分がそんな目にあう覚悟はしていた。だからこそ、豊かな生活のために、その危険に自ら飛び込むことができた。

 

「ふふ、怖いかい?……先に君も気持ちよくなりたいかな?」

 

黙り込むジーナを、男爵は恐れで何も口に出せないのだと思ったようだ。男爵は妖しい目でジーナを見つめながら、彼女の髪を梳くように撫でるが、ジーナは何も話さない。このまま自分が犯されて殺されるのを傍観できるほどジーナは達観していない。しかし、両腕は台の上に枷で固定され、両足には鉄球つきの鎖がつけられているため、ジーナは身動きが取れない。

男爵に口付けして舌でも噛み切るか悩むジーナを傍目に、男爵は彼女のシャツの胸元をはだけさせ、あらわれた彼女の白い肌の上に軽くキンジャールの切っ先をかすめる。流れ出た赤い血を、男爵は舌で舐めとる。生ぬるい感触に、ジーナが眉をひそめた。男爵は低い声で、ジーナに目を細めて問いかける。

 

「どうしたい?切ってしまってから楽しむのもいいし…でも、止血がうまくいかないとそのまま死んでしまうからね…。」

 

どちらも断りたい選択肢を二つだけ提示されたジーナは男爵に、切なく、すがるように頼んだ。

 

「せめて、痛みに耐えられるほど快楽に溺れさせてください。」

 

男爵は満足気に笑い、ジーナの股の間に座り、少女の上に覆いかぶさった。

15
向こう見ず

「なんだか、眠くなってきたな。悪いけど、僕は暫く、寝る事にするよ。その本棚の本は、読んでいいみたいだから、アレクサンドル様が帰って来るまで、それで時間を潰してくれ・・・」

 

 

時計の針が進み、エリクが寝入ったのを確認したジーナは、読むのも困難な単語や文法で書かれた分厚い本を置く。まさかジーナが平民だとは思っていないエリクは、彼女が先日まで文字もあまり読めなかったことは知らない。当のエリクはすーすーとペチカの上で、静かな寝息を立てている。

 

先刻カード遊びをしていた途中に、エリクが午後の眠い時間に暖かい飲み物を飲んで眠ってくれないかと期待し、ジーナは睡眠を促進すると聞いたハーブティーを淹れていた。実際に効果があったのか、単に眠かったのか分からないが、エリクが寝てくれて助かった、とジーナは思う。彼女は、主人である伯爵の元愛人を無理やり気絶させるような真似は避けたかった。

 

(男爵は本当に急用なのか?)

 

レーシャの時のように、男爵はジーナを地下へ誘うためにわざと留守にしたのではないかとも、ジーナは怪しんだ。しかし、それは半分、ジーナが期待していたことでもある。彼女はわざと男爵の罠に乗っかり、屋敷を探索しようと思って、男爵の屋敷を訪れたのだ。また、男爵は絶えず社交で出かけていると伯爵から聞いたので、本当に急用の可能性もある。ジーナの計画は小さい確率の掛け算に期待した荒いものだが、幸か不幸か彼女の望み通りの成り行きになっている。

 

冷静だが向こう見ずな少女は、男爵がなるべく長く戻らないことを願って、行動を始めた。まず、ジーナはエリクのズボンのポケットをそっと探り、銀の鍵を見つけた。レーシャは男爵の部屋の鍵はなかったと言っていたが、愛人のエリクなら持っているのではないか、とジーナが推測していた通りだ。

 

あらかじめレーシャから聞き出してつくっていた地図をもとに屋敷の中を歩き、ジーナは男爵の部屋にたどり着いた。伯爵の城より小さな屋敷とはいえ、意外にも、男爵の屋敷は使用人が少なく、廊下ですれ違ったのも、厨房で働く料理人だけだった。お陰で難なくジーナは扉を開き、男爵の部屋に入る。部屋には、仰々しい石膏像や見たこともない動物の骨やらが置いてあったが、死体は転がっていなかった。ジーナは珍奇な品に気をとられることなく、書棚、文机、引き出しの中を、手早く探す。そして、文机の上の小物入れの中に、小さな鍵付きの手帳を見つけた。ジーナは伯爵の城で拝借していた、金属製の爪楊枝を使って鍵を開け、ぱらぱらと紙を捲った。

 

……

17xx年、...月...日 …村の少年 すぐに…しまうのは勿体ないほど…今度はもう少し長く……てみようか?

 

17xx年、...月...日 …の粉挽きの少女 馬車で通った際に声をかける。とても可愛らしい子だった。それだけに、……た時も……

……

17xx年、...月...日 … イリア …とは、うまくやってきたが………を見られてしまった……思った通り、よく……てくれた……惜しいが、また美しい妻は見つかるだろう。

……

17xx年、...月...日 …兄弟で………数度遊んでから……

……

 

 

日記には夥しい数の人名が書かれていた。殺していない者もいるようだが、被害者は、レーシャが衣服を見つけた者たちだけではないようだ。ジーナはベストをまくって手帳をシャツとズボンの間に挟み、なるべく物色の痕跡を消して部屋を出る。人目を避けつつ廊下を歩き、レーシャが言っていた書斎にたどり着いた。ジーナは本の分類を目印に、レーシャが見つけた回転する本棚を探し出す。それは、狩猟についての本が並べられた棚だった。力を入れて押すと確かに、本棚が回転し、地下室に続く入口が現れる。

暗闇の中に、躊躇わず一歩踏み出そうとしたところで、ジーナの意識が途切れた。

14
危険を冒すもの

それから伯爵はすっかり憔悴し、ベッドの天蓋の下で男爵を告発する、しない、と無駄な堂々巡りの思考を重ねていたが、いつものように一週間以上も寝込むことは許されなかった。

 

レーシャが来た翌々日、いつも早朝から働いているジーナが姿を消したと執事が慌てて伯爵の部屋にきたのだ。屋敷中が少女を探した結果、馬小屋の馬が一頭消えたことが判明した。流石の伯爵も彼女が一人でどこへ行ったのかわかった。馬でなければいけない場所に、ジーナは消えた。彼女は単身、男爵の城に乗り込んだのだ。エリクに続き、ジーナまでも、伯爵の前から姿を消してしまった。伯爵の大きな身体が崩れ落ち、老いた侍女が悲鳴をあげる。主人と有能な部下の危機に、老齢の執事は頭を抱えた。

 

 

 

「やあ、よくきてくれた。」

 

(妻を亡くし、愛人を亡くし……いや、殺しておいて、花嫁に逃げられた男とは思えない陽気さだ)

 

ジーナは門まで出迎えにきた男爵を見て思う。黒々とした大きな瞳は、相変わらずシャンデリアにも劣らない煌めきを空虚に乱反射している。ジーナはせわしなく彷徨う伯爵の瞳を見つめるより、男爵の瞳を見続けることに困難を感じていた。妖しく微笑む男爵を、ジーナは冷えた鋭い瞳で見つめた。

 

ジーナには伯爵に報告していないことがある。舞踏会の日、知らぬ間に男爵から小さなメッセージカードを渡されており、そこに館に遊びに来るよう書いてあったことだ。伯爵に知られたら、面倒だと思ったジーナは黙っていたのだ。

 

「伯爵様からお暇を頂きましたので。」

 

ジーナは慇懃に礼をし、すらすらと嘘をついた。

 

「そうかい、エリクも歳の近い友人ができると嬉しいだろう。さあ、上の部屋でカードゲームでもしようじゃないか。」

 

男爵は優しく、小さな子供に微笑みかけるように言った。ジーナは無表情で是非に、と返す。

 

 

ジーナが男爵に連れられて豪奢でグロテスクな目に痛い装飾で彩られた部屋に入ると、エリクが既に丸いテーブルを囲む椅子の一つに腰掛けていた。

 

「あれ、君はイヴァン様の新しい小姓かい?舞踏会でも会ったよね。僕はエリク、よろしく。」

 

「…ジーナです。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。」

 

「二人とも歳も近いし仲良くするといい。今度はイヴァンと四人で遊ぶのもいいね。」

 

舞踏会でも殆ど会話していない、初対面に近い二人だが、エリクは同い年の少年として、ジーナに気軽に話しかけてきた。男爵が和やかにとりなし、三人はカード遊びをすることになった。カードを捌きながら、ジーナは、エリクも男爵も、自分が少年でなく少女だと気付いているのか疑問に思う。名前で分かると思ったが、あえて明言はしなかった。男爵は両刀のようだし、どちらでもいいことだ、と時折ジーナに視線をよこす男を見てジーナは考えた。ババ抜きではやたらと分かりやすい表情をする男爵だが、ジーナにはその奥の心が見えない。ここに伯爵がいたら百面相で大忙しだろうな、とポーカーフェイスのジーナは悔しがる二人を見ながら思った。

 

(面倒な事になるから言わないで来たが、あの人は大丈夫だろうか。また寝込んでいないといいが)

 

男爵が伯爵と城で話した時からなんとなく、男爵は伯爵のことも手篭めにしたいのだろうかともジーナは感じていた。愛人を寝取り、今の小姓ジーナも誘って伯爵の心を弄ぶ男爵に、殺人の件を除いても、ジーナは伯爵を会わせたくなかった。身分が後ろ盾になってくれるだろうから、ジーナはあまり伯爵の身体の心配はしていなかった。しかし、伯爵の心は既に瀕死状態だ。ジーナはその伯爵の命、そして自分の明日を守るために危険を冒して、男爵を釣る餌となったのだ。

 

ババ抜きはジーナが一番に上がった。

 

「なんてことだ!私はババ抜きで人の表情の変化を見抜くのは得意な方なのに!」

 

「まあまあ。ジーナは今までの相手の中でも一番のやり手ですよ。イヴァン様と違って本当に表情が変わらないね。君とあの伯爵様が睨めっこするのを見たいよ!」

 

男爵は心底悔しがった様子を見せ、エリクが彼を慰め、ついでに伯爵とジーナの対極的な性格を冗談めかして笑う。エリクは間近で見ると、本当に天使を受肉させた美しさを持つ少年だった。しかし美しさに関心があまりないジーナは、伯爵のように心動かされることはなかった。その後、他のカード遊びや盤で遊び、男爵の冒険譚などを聞いていた時、家令が男爵を呼びに来た。

 

「急用がある。古い友人が来たみたいでね。少し遠乗りして来るから、しばらく二人で遊んでいてくれ。」

 

そう言い残し、少し不満げなエリクの頰に口付けてから、男爵は部屋を出て行った。

13
弱き者

「そして、伯爵様のお城にたどり着いたのです……。男爵に見つかることを恐れ、衣服の切れ端すら証拠を持ってくることはできませんでしたが…神に誓って、全て真実です!どうか、信じてください……!今、男爵の屋敷に戻れば殺されます!奉公でも何でもしますから、匿ってください…!そしてどうか、慈悲深き伯爵様、あの恐ろしい悪魔……男爵の罪を告発し、彼に殺されたものたちの恨みを、晴らしてください…!!」

 

涙を流しながら訴えるレーシャに、血まみれのドレスを見つけたくだりから、己の想像する惨劇に耐えきれず、放心していた伯爵の意識が戻る。

 

「わ、わかった、貴女を男爵から保護すると誓おう。この城には空き部屋も多いし、行く先が見つかるまでここに居たまえ……ええと、その、女中は足りているし、食客として滞在するといい。…それで……男爵のことは……私も司法のことなどは分からないし、私兵も殆ど居ないので………申し訳ないが、少し、待ってくれないだろうか…」

 

レーシャの迫力に押され、伯爵は彼女を男爵から守ることを了承してしまった。元より、気弱な伯爵にレーシャを放り出すことなどできるはずもなかったが。ただ、若い女性の女中が城にいたら、自室から一歩も出られなさそうなので、彼女には伯爵の部屋から離れたところに滞在してもらおうと伯爵は思う。自分の城に駆け込んできた彼女を守る責務を果たすことから伯爵は逃げる気は無かったが、レーシャの話を聞いてもまだ、伯爵は男爵を裁く決心ができなかった。伯爵は自らの心の弱さを呪った。

 

(明日には、エリクも男爵の犠牲者になっているかもしれないというのに!私はまだ、彼女の話が嘘や勘違いであることを願っている!)

 

「まだ深夜ですし、伯爵様は体調が最近よろしくないものですから。また追って男爵のことはお話なさっては?」

 

ジーナは顔面蒼白の伯爵に毛布をかけながら、恐怖と焦燥で急り、伯爵に迫るレーシャを宥めた。

 

「そうだったのですか……このような格好で、いきなり訪れた平民の私の、城での滞在を許可していただけただけで、どれほどの温情か……本当に、ありがとうございます。」

 

実際は体でなく心の病だが、伯爵が風邪でも引いていると思ったレーシャは、彼の体調を心配し、その慈悲深さを感じ、尊敬と感謝の念を持って伯爵を見つめ、深々とお辞儀をした。

 

「いや……民を守るのは、貴族として、当然のことだから……」

 

彼の苦手な性別である以前に、守るべき民であり、ジーナよりは年上だが伯爵よりもかなり歳下のレーシャの潤んだ目に見つめられ、伯爵は、男爵を糾弾できない自身の弱さへの後ろめたさに胸が痛くなり、生返事しかできなかった。

 

レーシャがもう一度伯爵に礼を言った後、ジーナは彼女を執事に指示された客室に連れていった。

一部始終を見守っていた執事は、男爵から伯爵をもっと早く遠ざけなかったのは迂闊だったと、溜息をつく。伯爵がこの事態に対応できるわけがないと理解している彼は、伯爵の心臓を心配した。レーシャの言い分が真実なら帝都に報告すべきだが、何分彼女の証言以外証拠がない。伯爵より宮廷と繋がりを持つ男爵を証拠なく訴えるのは難しく思えた。第一、既に捜査が入っても仕方ない状況であったのに、男爵が野放しであること自体、男爵と司法関係者の癒着を示唆している。男爵より高い地位にいても、人脈のない伯爵が及ぼせる力は男爵のそれよりも限定的なのだ。主人の健康を最優先する執事はとりあえず、朧な目をした伯爵を老体に鞭打って、門番とともに寝台まで運んだ。

 

男爵が伯爵の城まで来ることはないと思いつつ、念のため執事は翌朝から屈強な村人から警備役を数人雇った。強面の若者に怯えを隠せていない、背丈だけは彼らと並んで高い主人と、自分の倍近く縦も横もある大男らに指示を出す少女を見比べながら執事はまた溜息をついた。老境に差し掛かり、己亡き後の伯爵を案ずる執事は、ジーナに貴族身分を与え、然るべき教育を帝都で受けさせるために養女にしようという伯爵の提案は全力を持って止めよう、と改めて思った。

12
人殺し

血塗れのドレスは、ここ数年流行り始めた、西の大国風のデザインのものだった。平民ではない、上流階級が着るものだ。男爵の前の奥方が着ていたのかと、レーシャは思った。この数日で男爵を信用し始めていた彼女は、これもきっと、何かの間違いだと、否定したかった。物語の王子のような彼と、美しい屋敷で幸せに暮らす未来を夢見たかった。しかし、誰かの血に濡れたドレスを見てしまった彼女はもう、見て見ぬ振りをして幻想にすがることはできなかった。

 

「甘い嘘より苦い真実」

 

祖母が口うるさく言っていた諺を口に出して自分を勇気付け、レーシャは箱の中をさらに探った。

 

 

衣装箱の中には、ドレスの他に、少年が身につけるようなズボン、夜着、そして農民が着る昔ながらのシャツもあり、皆大なり小なり血に汚れ、所々破れたり、切れていた。底の方には、真っ赤に染まったドレスもあった。レーシャを更に青ざめさせたのは、箱の中の血だらけの服が、4着以上あったことだ。男爵が殺したのは、妻と愛人だけではなかったのだ。さらに、ランタンで部屋の奥を照らすと、石壁にも赤茶けた血がこびりついているのに気がついた。よく目を凝らすと、天井にぶら下がっているナイフの刃先も、置物だと思っていた昔の武具にも、全て血の跡が見える。

 

「あ、あ…」

 

レーシャは、地下の全てが残虐な行為の痕跡であることに気づき、身を震わせた。あまりの恐ろしさに悲鳴も出せなかった。しかし、レーシャを恐怖に落とすのは血痕や被害者の身につけていたもので、彼らのものかも分からぬ頭蓋骨以外、どこにも死体は見当たらない。燃やしたのか、埋めたのか。男爵が、死体は消すのに、衣服や凶器は残していることが、余計恐ろしく思えた。死体が埋まった土地で優雅にこの数日暮らしていたのかもしれないことも、悪魔を愛しそうになっていたことも、若い彼女には耐えがたい残酷な事実だった。

 

ガタン、

 

「ひっ」

 

どこかで物音が聞こえた気がしたレーシャは、思わずアイアン・メイデンの後ろに隠れる。先ほどの勇気は何処へやら、あまりの恐怖に、身がすくんでいた。男爵が帰ってきたら、彼女もこの地下室で殺されてしまうのだろうか。あの衣装箱の中の服の持ち主たちは、ただ命を奪われるだけではなく、散々いたぶられて、殺されたのだ。その様子を想像してしまい、レーシャの足がすくむ。そもそも、男爵は何故身を危険に晒すようなことを、レーシャに鍵を渡すようなことをしたのか、彼女は考える。男爵はあまり多くの部屋を見るな、と彼女に言った。彼女は、父と親しい男爵が、お転婆なレーシャがそう言われて、どのような行動に移るか予測できていた可能性に思い当たる。

 

もしも鍵を渡したのは、彼女をここにおびき寄せる罠だったとしたら?

 

自分はもう喉元に剣を突きつけられている。レーシャは理解した。そう思うと、頭が冷えて、彼女は冷静に考えられるようになった。男爵は、今日の日没前、あと数刻で帰ってくるとレーシャに言ったが、実際はもっと早く戻って、この地下室まで来るかもしれない。あの長い階段を登って、重い本棚を戻して、間に合うだろうかと、レーシャは不安になる。彼女はエリクのことも疑っていた。男爵の罪を彼が知らなかったとしても、例えばレーシャが書斎に行ってしばらく戻ってこなかったことや、隠し扉を発見したことなどをエリクが告げ口する可能性は十分にある。

 

コツン

 

遠くの方で、誰かの足音が響く音がレーシャの耳に届いた。レーシャの頭は、かつてないほど速く回る。男爵の屋敷は当世風だが、地下室は最近掘って作られたものとも思えない堅牢なつくりだった。森の中に男爵の屋敷があるのも、かつて使われた砦だか城だかを建て直したからだと聞いた。そしてこの土地は、数十年前まで、耐えず数々の異民族と帝国とが争った場所だ。もし、この地下室が戦乱の最中に使われていたものだとしたら、レーシャは生き延びるという決意を持って希望の糸口を探し、おぞましい遺物が転がる部屋の壁中、床中を大急ぎで探した。

 

カツン、カツン、と足音が迫り、男爵が地下へ降りてきているとレーシャが確信した時、彼女は床のタイルの一部をずらし、脱出用の地下通路を発見した。ドレスをたくし上げ、狭い穴の中をレーシャは死に物狂いで這って進み、地上へと出た。沈みかけの太陽の光を浴びながら、レーシャは地上への出口がふさがっていなかったことを神に感謝した。地下通路の出口は、森の出口、小川の手前にあった。男爵は彼女が姿を消したことに気がついているだろうと、レーシャは休むこともなく、そのまま何とか氷が張った川を渡り、暗くなっていく森を抜け出た。幸い吹雪いてはいなかったが、外の空気は冷えて、レーシャの服装では夜も越すことは難しい。それでも戻るわけには行かず、ひたすら歩いたところで、商人の一行に出会った。レーシャは彼らに頼めば実家のある街まで連れて行ってくれるかもしれないとも思ったが、彼女を男爵の元に戻すかもしれない父の家に戻ることは諦めた。理由あって乱暴者から逃げており、庇護を求めていることを商人に話すと、彼らは「幽霊伯爵」と噂される伯爵が一番近い権力者であると言い、その城の前をちょうど通ってきたと地図を書いてくれた。レーシャも風変わりで人嫌いの伯爵の噂を耳にしたことはあったが、幽霊でもなんでも、悪魔から逃げ切るためなら縋りたいと思った彼女は、身につけていた貴金属と引き換えに、商人たちから一頭馬を借りた。

彼らが彼女を襲わない善良な商人であったこと、街で取引を終え、荷を下ろしていたこと、数々の偶然に感謝しながら、レーシャは長い金髪が解け、風に乱れるのも気にせず、夜の闇の中を駆けて行った。

11
怖いもの知らず

二日前から、男爵は帝都に出かけており、館を留守にしていた。屋敷を出る前、男爵は屋敷中の部屋に通づる鍵を、今や女主人であるレーシャに預けた。そして彼女に、

 

「片付いていない部屋もあるから、あまり見ないでくれ。」

 

と、軽く言いつけ、馬車に乗った。しかし、遊び相手もおらず、有能な使用人達に指示も聞かれず、暇なレーシャは、退屈を紛らわせるように屋敷を散策し、片っ端から戸を開け、中を覗いた。男爵の部屋だけは鍵がないので開けられなかったが、他の部屋は開けることができた。扉を開くたびに、趣の違う装飾や様々な高価な調度品、芸術品が現れ、レーシャを楽しませた。自分の家の中を駆け回って探検していた幼い時のように、レーシャは思いの外奥深い屋敷を隅々まで探索しようとした。

そして、目敏い彼女は、書斎の本棚が押すと移動する、隠し扉になっていることを発見してしまった。

 

レーシャは躊躇うこともなく本棚を回転させ、壁に現れた扉の鍵を探し出して扉を開いた。扉の向こうには暗闇が広がっていたので、レーシャはランタンで足元を照らしながら地下へと続く階段を降りる。無邪気な彼女は噂も男爵の言葉も忘れており、隠し扉の先が地下へと続いていることを訝しむこともなかった。階段はレーシャが予想していたよりも長く、地下の空気の冷たさに彼女は身震いした。

カツン、カツン、と、彼女のくつ音だけが広い空間にこだまする。まだ地面にたどり着かないのか、と流石に不安になったレーシャが引き返そうかと思った時、ポチャンと地に落ちる雫の音に気づき、地下室についたと知った。何があるのかとランタンを掲げると、中世の地下牢のような石壁に囲まれた空間が広がり、アイアン・メイデンや古めかしい武具が置かれていた。レーシャは少し不気味に思ったが、男爵の先祖が使用していたものか、博物趣味で集めたのだろうと考えた。手前の机の辺りを照らすと、頭蓋骨があり、思わずレーシャは小さな悲鳴を上げた。よく見ると頭蓋骨は加工されて杯になっていた。男爵が使用しているのか、嫌な想像をしてしまう。レーシャはもう引き返そうかと思ったが、好奇心か、新たな夫への不安を取り除くためか、アイアン・メイデンの蓋に手をかけ、開いてしまった。

 

幸い、中には人の死体はなかった。

 

すこし赤黒いものがこびりついているようにも見えたが、きっと大昔に使用されたものだと、レーシャはそう信じようとした。とはいえ、数百年前のものだと思っても、気持ち悪くなってきた彼女は、階段の方へ戻ろうとした。

 

「きゃっ」

 

その時、何か生暖かい物がドレスの隙間にのぞく彼女の足元に触れ、レーシャは驚いてランタンを落としてしまった。光に照らされたそれは鼠であることに彼女は安堵する。そして、衣装箱が足元に置いてあったのに気づく。彼女は思わずしゃがみこんで、その箱に手をかけていた。絹織物を売る商人の娘として、中世の豪華な布や衣服が入っていたら見たいと思ったのだ。それとも、地下室にある何かが、彼女を異常に不注意にさせたのかもしれない。箱には錆びた鍵がかかっていたが、ハンマーで叩いて壊す。昔から彼女はお転婆娘として家族の手を焼かせていた。色々な家のものを壊し、叱られた日々を懐かしみながらレーシャが箱を開ける。中身は、思っていたより当世風の良質な布のドレスが乱雑に詰められていた。レーシャは綺麗な刺繍をよく見ようとランタンを近づけ、気づいてしまった。

 

「な、なんてこと……」

 

仄暗いランタンの明かりでもはっきりと分かるほど、ドレスは血まみれだった。

10
夢見る乙女

婚礼の二週間前、レーシャは家から離れた、森の中にある男爵の館に引っ越すことになった。父を説得できなかったレーシャは馬車で連れて行かれる時に身投げしてやろうかと思うほど、乗り気でなかった。彼女はまだ十八で、恋や愛に幻想を抱き、幾多の未来の可能性、いつか都に行き、そこで出会う都会や異国の紳士が、彼女を知らぬ世界に連れて行ってくれることを、毎夜夢見ていた。それが舞踏会で彼女を見初めたのは、人殺しと噂される男だとは!彼女は何日も枕を濡らした。夜の暗闇に包まれるたび、恐怖と後悔の念が湧き上がった。

 

遠目に見た時、男爵は確かに整った顔立ちに見えたが、彼は妻を三人、それに愛人も殺したかもしれない男だ。それに、新しい愛人の少年もいるという。自分は彼の屋敷で、一体何日生きられるのだろうか?まだこの国で一番美しいという都の宮殿も、別世界のようだという東の大国も見ていないのに、恋もしたことがないのに、短い生涯を終えるのだろうか。親しい友人たちとも、幼い頃から飼っている愛犬とも、いつも彼女を揶揄うが、心やさしい幼馴染とも会えなくなるのだ。趣味として始め、その上達ぶりを姉たちに褒められたレースの刺繍もまだやり残した作品がある。いつかは自分で刺繍したレースを売ることもほんの少し夢見ていたというのに。

 

閉ざされた未来と、愛しい人々を想ったレーシャはとても悲しくなった。しかし、彼女の父親に何度レーシャが求婚を断るよう懇願しても、父はお前のためだと言い、聞き入れることはなかった。再三説得に失敗したレーシャは父にとって自分も商品に過ぎず、その上傷ついてしまってもいい商品なのだと実感し、運命の女神ドーリャに抗うことを諦めた。

男爵が彼女を迎えに来る頃、何日も泣いたレーシャの目はすっかり赤くなってしまっていた。家にある一番高価なドレスに身を通し男爵と対面したレーシャだが、男爵は存外白馬に乗ったツァーリのように威厳と麗しさを持ち合わせていたので、幾分それで気が晴れた。地獄への道案内だと思って乗った馬車でも、彼と談笑しているうちに森の中の館についてしまった。屋敷は生い茂るアカマツの森で外から隔てられていたが、華やかで繊細な外観で、小さな宮殿のようだった。裕福とはいえ平民のレーシャにとっては、暗い噂を忘れてしまうほど、浮き足立ってしまう程新しい夫も、新しい家も眩しかったのだ。誰が若いレーシャが男爵に惹かれたことを責められるだろうか?どれ程疑わしい事実があったとしても、誰もが彼の虜なのだ。男爵の美しい小姓もまた、レーシャの不安を裏切り、彼女を丁重に、男爵の妻として扱った。

 

「私はもとより男爵と彼が妻として私を尊重してさえくれるなら、美しい小姓と男爵の関係は気にしておりませんでした。その方が、男性に不慣れな私としても気楽だと思ったのです。男爵は愉快な人で、色々な話で私を楽しませてくれました。私は、彼の家で亡くなった人々のことなど忘れ、彼との結婚生活に希望を抱き始めていました。しかし…」

 

レーシャは表情を曇らせ、毛布をぎゅっと掴んだ。伯爵は無理に話さなくていいと言おうとしたが、エリクの身の安全が気になり、声に出せなかった。レーシャは、深呼吸すると、震える声でまた話し始めた。

9
花嫁

伯爵の憂鬱ながらも平穏な日々が続き、男爵への恐れを忘れかけていた頃のこと。真夜中、城の門をけたたましく叩く音に居眠りをしていた門番が起こされた。あの孤立した伯爵を深夜に尋ねる者などいるのか、まさか本物の幽霊か?と門番は開けるのをためらったが、音が鳴り止まないので、渋々、無用心にも門を開け、

 

「わあ!」

 

門番の青年は音の主を見て叫んだ。ランタンの明かりが暗闇に、長い髪を振り乱し、血走った目の女を浮かび上がらせたのだ。女は、必死の形相で門番に掴みかかってきた。

 

「お願い!伯爵様に保護を求めたいの!!私は隣の領地に居を構える商人の娘よ!!!早く、お城に入れて、でないと、あいつが、悪魔がくるかも、」

 

「ひっ、ゆ、許してくれ、よくわからんが、許してくれ〜っ!!」

 

動転した門番は女の話を聞いていない。もはや門番には女は悪霊に見えている。

 

「何言ってるの、早く、ねえっ!!!」

 

「イイスト・ハリストス、我を助け給へ…」

 

「貴方でなく、私を助けてよっ!!!」

 

「ぶっ」

 

埒があかないと思った女は主に祈り始めた門番の頬を打った。

 

「い、いた…何するんだっ!!!!………あれ、………あなた、もしや生きてます?」

 

「だから死にそうだと言っているでしょう!!!!」

 

頬を打たれて我に返った門番がよく見ると、気迫のあまりに悪霊かと思った女は、よく見ると整った顔立ちをしており、言葉遣いも村人より上流階級のものに聞こえる。

 

「もしかして貴族様で?とんだご無礼を……」

 

門番は自分の無礼に真っ青になり、足を揃えて居直る。女は態度よりも聞く耳を貸せと言った様子で切羽詰まっていた。

 

「私は金持ちなだけの平民よ!それより早く、」

 

「ははあっお金持ちの!確かにお召し物も高価な絹でいらっしゃる、しかしそんなに汚されて。ところどころ擦り切れているではありませんか。それに肌もこんなに冷たい!死んでしまいますよ!!早く城の中へ!!!伯爵様は不気味だのなんだの言われておりますが心はお優しい方ですからね、きっとよくしてくれますよ、」

 

「………そう、では、お邪魔させていただきますわ。」

 

女は一刻も早く安全な場所に行きたかったので、門番への不満は一旦飲み込んだ。

 

 

「男爵の新しい花嫁!?この間、奥方を亡くされたばかりだというのに…。寝耳に水だ。」

 

伯爵は寝ぼけ目だった半目を開いて驚く。夜中に起こされたので、シャツの上に、東方の布を使ったガウンを羽織っただけの姿だが、女性は突然の来訪に対応してくれたことに感謝した。社交界に顔も出さない伯爵は、男爵の新たな結婚の話も全く知らなかった。執事は帝都の政治にも通じろというが、伯爵は領民と自分の暮らしに直接関わる情報以外に関心がなかった。領地内の話ですら、本当に気にかけ始めたのは、ジーナと友人になってからのことである。

 

「そうなのです。私も噂は存じていましたから、この縁談は断りたかったのですが、父が…男爵は貴族であるし、この時世立て続けに妻を亡くすこともある、不幸な彼を支えてやれと…」

 

女性の父は絹織物商で男爵が得意先だった。父と共に男爵の舞踏会に招かれた際、彼女は男爵に見初められてしまった。彼女は男爵と親交があったわけでも、踊った訳でもなく、求婚の話を聞いた時には、彼の顔を間近で見たこともなかった。その上、妻を亡くしてすぐ結婚を申し込む男爵には不信感しかなく、彼の少年愛の話も耳に入れていたため、全く気が進まなかった。しかし、三人娘の末っ子である彼女の行く末と家の繁栄を案じた父は、男爵の求婚を了承してしまった。

 

「それは…辛い想いをされたね。」

 

伯爵は気の毒そうに言った。伯爵は彼女とかなり距離を取って座っていたが、レーシャという名の彼女に共感し、同情した。毛布に身を包んだ彼女も化粧の落ちた顔しか覗かせていなかったのも、彼の心を落ち着かせた。

 

「ありがとうございます…。」

 

「……それで……」

 

「ええ、何故このような身なりで伯爵様に助けを乞うたか、でございますね。……、ああ、本当に、あの男は恐ろしい……」

 

涙を拭いながら話すレーシャは、寒さと恐怖で震えていた。伯爵と違い、正装に身を包み、無言無表情で話を聞いていたジーナは彼女の背をさすってやり、グラスに注いだウォッカを勧める。レーシャはアルコールで身体を温め、彼女に襲った災難について語り始めた。

8
人形

*未成年に対する性的虐待を仄めかす描写があります

 

 

 

 

伯爵が生まれた時、伯爵の母は産褥熱で亡くなった。だから、伯爵は実の母の顔も見たことがない。城に飾られた肖像画の中の母は、伯爵に似た灰色の目と銀の髪、薄白い肌を持ち、儚げな風貌をしていた。伯爵の父———先代の伯爵は、妻の忘れ形見である伯爵を、城に半ば閉じ込めながらも、優しく育てようとした。もっとも当時宮廷に仕えていた父親は留守が多く、伯爵を育てたのは乳母や執事たちだった。彼らは我が子のような愛情を持って伯爵に接し、おかげで伯爵は愛くるしく、気弱だが心優しい少年に育った。そして、伯爵が八つになった年、父親が再婚した。薄暗い城にやってきた、煌びやかで華やかなドレスと香水を身にまとった継母と義理の姉たちを、伯爵は当初恐れたが、やがて彼らを新しい家族として受け入れた。彼女たちは伯爵を可愛がり、他の貴族の城での茶会や舞踏会にも連れて行った。伯爵がそうして、彼女たちを姉や母だと認識するようになった。しかし段々、彼女たちの愛情の歪さがあらわれてくる。義理の母や姉、その友人たちは伯爵を女の子のようにドレスや化粧で着飾らせるのを好んだ。鏡に映った幼い伯爵は、ほとんど少女に見えた。留守がちな父親は何も把握していなかった。そしてそのまま、ある日彼の父は、落馬事故で亡くなった。父の死はとても悲しかったが、この時の伯爵は、ともに喪服に身を包み涙を流す姉と母がいれば支え合っていけると、信じていた。

 

 

 

伯爵が十を超えた頃から、田舎に退屈した彼女たちの遊びは過激になった。女装させた伯爵のドレスのスカートをめくって笑ったり、成長しつつある身体を晒させたりした。母が女主人となり、父親が帰らぬ人となった今、伯爵には逃げ場がなかった。そして彼女たちは夜も伯爵の寝室に入り浸り、血が繋がらないながら、家族としては、そして幼子にするものとしては、許されない行為を繰り返した。心で泣いても、体は喜んでいると嘲笑われるうち、伯爵は自分は彼女たちの人形なのだと思うようになった。伯爵の顔からは生気が失われ、食事も進まず、城の庭で遊ぶことも少なくなった。そんな日々が一年以上続き、伯爵が人生を諦めかけたころ、辺境の城に訪問者が来た。伯爵の父が少し金を借りていた友人が、その要求に来たのだ。その友人は宮廷の役人だったが、娘をより高位の貴族に嫁がせる持参金で金が入用だった。つまり彼は、急いでいたのだ。そして城に入った後、使用人たちの制止も聞かずに奥方の部屋の戸を開けた。伯爵の城は数百年前からあり、外見は立派だが中身は古びていた。そして、宝石やドレス、絵画にお金を費やしていた奥方だが、城の整備にはあまり気をかけていなかった。

壊れていた鍵のおかげで、そして偶然か必然か司法関係の役職にいた債権者のおかげで、伯爵の悪夢は終わった。早く借金を返済してもらいたい司法官は、正しい手順を踏んだかは不明だが、迅速に伯爵の継母たちを裁き、伯爵が父の財産を名実ともに自由にできるようにした。司法官がとって行った金額が本当に借金の額と同じだったのか伯爵には分からなかったが、彼は継母たちの人形遊びから解放されただけで、十分だった。

 

 

 

伯爵は、女性とは話しをすることもままならなかったが、愛しい少年相手であっても素肌に触れることはできなかった。忌まわしい幼き日の記憶が、どうしても彼にそれをためらわせた。もし少年、エリクがともに傷を癒す歳月を過ごせば伯爵もいずれは彼に与えることができたかもしれないが、エリクが欲しかったのは、穏やかな愛ではなく燃えるような恋だった。伯爵が、与えられないことが原因で去られたのは、エリクだけではない。それに、伯爵がまだエリクよりもジーナよりも幼かった頃には、淡い初恋を抱いていた女の子もいた。けれど、麗しい女性になった彼女に手を握られただけで、伯爵は眩暈を覚え、吐き気を催した。憧れていた少女の姿を、記憶の中の忌まわしい義母と義姉の姿に重ねてしまった伯爵は、それからずっと、女性を避け続けた。成人した男性から怪しい視線を送られることもあったが、意にそぐわぬことをされるのではないかと危ぶむ伯爵は彼らからも距離をとり続けた。代わりに、華のように美しい少年たちを傍にはべらせ、慈しんだ。綺麗な服を着せ、演奏会へ行き、共に木々の中を歩いた。それは伯爵にとって暖かく、愛おしい時間だった。もしかすると、伯爵自身がしたかった少年時代の経験を彼らに与えようとしたのかもしれない。ただ、美しいものを見て全ての悩みを忘れたかっただけなのかもしれない。伯爵も、自分の真意はよくわかっていなかった。彼にとって確かなことは、彼は少年たちを愛していたことだ。しかし、彼らが求めていたのは、伯爵と同じ愛ではなかった。皆、失望して伯爵の元を去った。

 

 

 

「うう…」

 

伯爵は唸り声を上げて寝返りを打つ。伯爵は夢の中で、姉や母やエリクたちの嘲笑から逃げようと走り続けていた。背中に浴びせられる笑い声はやがて遠のき、伯爵は雪原の上で息を整える。顔を上げると、知り合ってそう長くない少年の格好をした少女がたたずんでいた。

 

ジーナは伯爵にとって、不思議な存在だった。中性的な顔立ちのせいか、性を感じさせない淡白さのせいか、彼女が少年の格好をしている限り、伯爵はジーナを恐れ、不快に思うことはなかった。ジーナは伯爵の中で、愛人よりも友人に近い位置にいた。今までの小姓と違い、ジーナは伯爵に何らの熱が籠った瞳も向けない。それでも、だからこそ、彼女と過ごす時間は、これまで誰と過ごしたよりも優しい時間だと感じていた。もっとも、その大半は寝込む伯爵の世話をジーナがしているだけであったが。

 

夢の中で少女の姿を見て伯爵が安堵のため息をついたのも束の間、瞬きをする間に伯爵の視界は真っ赤に染まった。血まみれのジーナが、伯爵にすがりついていた。彼女の虚ろな鳶色の瞳と伯爵の目が合い、その頬に手を当てた伯爵は、肌の冷たさから悟った…

 

「あああああっ!!!」

 

伯爵は思わず飛び起きた。彼の心臓はいつになく早く脈打ち、身体中から汗が吹き出ている。

 

「はあ、はあ…」

 

伯爵は呼吸を落ち着かせ、ぎょろぎょろと瞳を回し、時計を見る。まだ深夜だった。窓の外は真っ暗で、星も見えない。眠るのが怖くなった伯爵は身を起こすと、寝台近くの机の上に、蜂蜜入りのウォッカが入ったグラスが置かれているのに気づいた。ジーナが用意したものだ。ジーナは孤児だと言っていたが、本当に気の利く子だ、と伯爵は感心し、また同時に、自分より一回り以上年下であろう彼女に気を遣わせていることに後ろめたさを感じた。そして、自分を見捨てずに忠告してくれた彼女への仕打ちを思い出し、後悔した。それでも、伯爵は男爵への疑念を頭の中から消そうと、ウォッカを飲んで再び眠りに落ちた。

 

 

 

 

まだまだ寒い夜から少女を守る、暖炉の炎が爆ぜる。燃える薪を見つめながら、ジーナは男爵の白黒、動機を考えていた。城や舞踏会での会話を経て、男爵は怪しいと直感で感じていたジーナだが、同時に、爵位を持ち、伯爵の百倍貴族生活を楽しみ、社交界でも浮名を流す男が危険を冒して身内の連続殺人を行うというのは、平民のジーナには考えにくいことだった。恵まれた地位と財産と美貌を持つ男爵が殺人鬼であるなど、伯爵が信じたい通り、ジーナの杞憂だろうか。しかし、特段大きな理由がなくても、些細な事から仲睦まじい家族や友人が争い合う光景もジーナは見てきた。

 

ならば、自分がなすべきことは何か。伯爵の心を、己の生活を守るのに、このまま悪魔が住む館から離れ、門を開けなければ堅牢な城に閉じ籠っているのが最善なのか。

 

ジーナは考えを廻らせながら伯爵から貰った懐中時計をいじる。西の共和国の職人がつくったというそれは、高価であることが一目でわかった。元々ジーナは伯爵の領民であり、彼への奉仕の代わりに庇護を約束された存在だった。それはこの国ではとても重い制度だったが、城からほぼ出ることもない伯爵は遠い存在で、領主の存在の大きさを、幼い頃のジーナは知らなかった。今、彼女はただの一領民ではなく、伯爵に直接仕えている。手を真っ赤に、あかぎれだらけにして冬の森を歩いて食糧を集めることもせず、凍えることもなくこの暖かい部屋で、柔らかい寝台の上で眠ることができるのも伯爵に与えられた恩恵だ、とジーナは身をもって感じていた。

 

恩恵は、奉仕と引き換えなのだ。いつも涼しげな少女の鳶色の目に、炎が映っていた。

7
盲目

しばらくの間、珍しく元気だった伯爵が再び塞ぎこんでしまい、執事たちは頭を抱えた。伯爵は舞踏会の夜、目を開けて天蓋が広がっていたことで何が起こったか自覚した。その後彼は自室に篭り、ベッドの上から動かず、服も夜着から着替えずに陰鬱な日々を過ごしていた。罪悪感と義務感から必要な書類にだけ目を通し、印を押すことだけはしていたが、それ以外何もやる気がでなかった。そして、自分は判を押すしか能のない伯爵なのだと、さらに落ち込むことを繰り返していた。

 

紙の上の字を辿るのに疲れた伯爵は、顔を上げ、暦は春だというに、降り積もる雪を眺める。この深雪の向こうで、領民たちが働き、汗を流し、互いを慈しみ、愛し合っている光景を彼は想像した。寂れた城で暮らす伯爵は、温もりに包まれ、手を動かすこともなく生きていることに後ろめたさを感じた。一方、平民の世界は彼にとって異世界に等しかった。ジーナの語る平民の暮らしは伯爵の心を揺り動かしたが、それでも、それは眠る前に昔話を聞く子供が味わう感情と同じだった。伯爵自身は、窓から見える領民たちに声をかけたことも久しくないのだから。

 

昼も心が晴れない伯爵は、夜も小姓と男爵が交わりあい、小姓に触れることもできない伯爵が笑われる夢を見て、満足に眠ることもできなかった。伯爵は、小姓と男爵に嫉妬し、彼らを汚らわしいと感じる自分も、男爵に劣る自分も許せず、雪に溶けて消えたいと思った。もっとも、彼がいくら苦悩していたとしても、傍から見て、怠惰な貴族と同じ生活を送っているのに変わりはなかった。

 

 

 

伯爵のメランコリックが始まって7日経とうかという時のこと。世界の終末を一人待つ彼の世話をしていた少女は、遂に男爵の噂について彼に問うた。それは伯爵の不甲斐なさに愛想を尽かし、発破をかけようとしたわけではない。

伯爵は、自室に篭りながらも最低限のことはこなし、村人の諍いについて執事に相談された時はひどく自信なさげに吃りながらではあったが、適切な処置を下させていた。それだけで、以前の領主や他の領主の悪評を聞き慣れていたジーナにとっては、伯爵は怠惰でも良き領主だった。それに、平民で居候の自分が伯爵の世話をするのは当然だと思っていた。この厳しい自然と理不尽な重税、重責に耐えてきた農奴たちの期待値は、限りなく低かったのだ。

 

それはともかく、ジーナが何故今になって聞いたかといえば、7日経てば伯爵に与える衝撃が小さいと考えたからだ。よく言えば無害、悪く言えば御し易い伯爵に心臓麻痺で死なれ、何処ぞの傲慢な貴族が領主の座に就くことは彼女にとって避けたいことだった。加えて、衣食住を提供してくれる主人への情も小さじ一杯程あった。

 

 

 

「ああ……噂に関しては聞いているよ。」

 

羽毛布団に包まって芋虫のような体勢で話を聞いていた伯爵は、顔だけ布団から覗かせ、ジーナの予想外の返事を返した。

 

「私は男爵を信じたいが、こうも不幸が続くとね……けれど、彼は…エリクは私が何を言っても男爵の下は去らないだろう。」

 

伯爵は灰色の目を伏せ、深いため息をついた。伯爵は噂を知っていて事態を放置しており、それがまた毎晩彼を悩ませていたのだ。伯爵の半端な人の良さがまた、彼の決断力を弱くしていた。

 

「男爵を一瞬疑ってしまうこともあるんだ。だけど、それは私が彼に嫉妬しているからだろう。」

 

伯爵にとって、愛人を寝とったとしても、男爵は城を訪れる唯一の友人だった。魂が純粋な伯爵は、友人を疑う自分の罪深さに怯えていた。他方、伯爵と違い男爵に何の情もないジーナにとっては、彼は真っ黒な存在である。

 

「四人も彼の傍にいた人が亡くなれば、疑われて当然だと思いますが。そして、私から見ても、男爵は危険な人物に見えます。彼の笑顔には裏を感じますし、貴方の恋人を奪いながら平然と友人の顔をしている。」

 

少女は抑揚のない声で淡々と述べた。伯爵は、恋人という単語を耳にすると悲しげな顔をし、枕に顔を埋めて呟く。

 

「エリクのことは……私が悪いんだ。私が、彼の望むものを与えられなかったから。」

 

エリクという少年は貴族階級だと聞いていたジーナは、貴族の少年にとってはこの城での豊かな生活では不十分なのか疑問に思い、思案を巡らせたところで、舞踏会で伯爵が倒れる前に目にした妖艶な少年と男爵のやり取りを思い出す。察しの良いジーナには、伯爵が与えられなかったものが何なのかわかってしまい、少し彼に同情した。彼女は伯爵の過去は知らないので、潔癖症程度にしかこの時は思っていなかったが。

そして、伯爵は見目麗しい少年を小姓にして愛人のように侍らせたとしても、手は出さないということは、エリクの代わりとして雇われたジーナにとっては良い知らせであった。女性恐怖症の伯爵が自分に手を出す度胸はないと踏んでいたジーナだが、二人の関係が発展することを危惧した者たちに解雇される可能性を危惧していたから。しかし、執事はじめ伯爵の潔癖症を知っている城の者たちならば、男装した少女と伯爵の関係を疑うものはいないだろう、とジーナは確信できた。伯爵家の存続を危ぶむ執事はむしろ期待していることなどは彼女の知らぬところであったし、良識ある執事は沈黙を守っていた。

 

 

つい考えにふけ、無言でいたジーナにその通りお前が悪いのだと責められた気になったのか、自分でまた思い出して切なくなったのか、枕から顔を離さない伯爵はかすかに嗚咽を漏らして涙を流していた。伯爵の声に気付いたジーナは、めそめそと泣く自分より10以上年上の男を慰めようと試みる。

 

「だからといって、普通、友人であれば迫られたとしても寝取ら…失礼、憚かるのでは?私は経験はありませんが、酒場ではそのように男性たちが話すのを聞きます。貴族でも、下手をすれば決闘沙汰ではないのですか?」

 

しかし基本的に釣りや農業の術を磨くことに力を入れ、周りに伯爵のような繊細な心の持ち主がいなかったジーナは、上手な慰め方を知らなかった。そして伯爵は、さらに彼女の言わんとすることを曲解し、また嘆く。

 

「ああ…決闘もしない臆病者は、寝取られて当然なのだ。」

 

「イヴァン様に決闘など命を賭けることをされては困ります。貴方ほど慈悲深き領主様が他にいらっしゃいますでしょうか?貴方は領民になくてはならない存在です。問題は、身分が高い貴方にそれだけのことをしている領主のあの態度なのです。」

 

「私は、別に彼の身分は…。」

 

貴族社会の遊戯が苦手な伯爵は、普通の「友人」として気軽に接してくる男爵に惹かれ、友情を結んだ。友人に上下関係はない、という男爵の言葉通り、伯爵は彼を対等な者と思っていた。ジーナや周囲には無礼と思われかねない男爵の気さくさは、伯爵にとっては救いだったのだ。人付き合いを幼少期以来ろくにせず、臣下に囲まれていた伯爵に、真実の友情と遊戯の友情の違いを見抜くことができるはずもなかった。貧しい平民のジーナも、社交経験はなく、男爵と伯爵の友情が本物か断言する自信はない。ただ、彼女は男爵が限りなく連続死に対して、“黒”であると感じていた。

 

「貴方は、彼を裁く力をお持ちです。私は正直言って、男爵が好色で殺人欲求のある異常者でも、貴方に危害が及ばない限りは構いません。しかし、貴方は彼を守りたいのではないのですか…」

 

埒があかないと思ったジーナは無表情で伯爵、イヴァンの枕元に近寄り、耳元でしっかりと囁く。伯爵は枕から顔を上げ、ジーナの方を見た。強い意志を持つ彼女の鷲色の瞳を、伯爵は真正面から見つめられなかった。

 

「やめてくれ、…それに、やはりきっと、あの陽気な彼が殺人を繰り返しているなど、ありえないよ。」

 

「それは、ありえないと信じたいからです。」

 

伯爵の目が泳ぐ。男爵と同じように友人だと思っていた少女が、彼を疑えという。伯爵のか弱い心臓には、十分すぎる負担だった。

 

「……ジーナ、もう、下がってくれ………」

 

耐えきれなくなった伯爵は、弱々しくジーナを手で遠ざけ、再びベッドに突っ伏した。

 

「…出すぎたことを言いました。申し訳ありません。お言葉通りに。」

 

ジーナは表情を変えず、おとなしくベッドから離れた。そして、扉を開ける前に伯爵の方へと向き直り、

 

「……しかし、男爵にはくれぐれもお気をつけください。…良い夢を。」

 

と一言残し、去った。羽毛の下で震える伯爵が見るのは、悪夢に決まっていた。

6
伯爵の天使

バーバ・ヤガーよりも恐れ、嫌厭していた場所に、伯爵は佇んでいた。

 

蝋燭やランタンで薄暗く照らされ、煌々と燃えるのは暖炉の炎だけである伯爵の城と違い、そこは光に溢れていた。シャンデリアの眩しさに伯爵は目を細める。蒸せ返る香水の匂いと男女の笑い声、その館の全てが伯爵の弱い心を震わせ、踵を返せと責め立てた。誰も彼もが仮面を着けている舞踏会は、貴族社会そのものだ。仮面を外したところで、貴族は四六時中宮廷で仮面演劇を演じていると伯爵は感じていたし、あながち間違いではなかった。伯爵は貴族としてその舞台に上がるのを拒絶し、高位の位を先祖から受け継ぎながらも辺境にある古城に引きこもっているのだ。異国との国境近くにある、都市から離れた深い森から出ない伯爵は、不健康な見た目と相俟って、領民からも他の貴族からも幽霊伯爵と渾名されるようになった。

 

伯爵の周りを他の招待客は避けていたので、ジーナと伯爵は二人で隅の壁にもたれ掛かる。もっとも、西の民に比べ背が高い同胞の中でも頭ひとつ高い伯爵は隅にあっても存在感を放っていた。伯爵は悪目立ちする度胸もなかったので、貴族の正装にふさわしく新調したコートを羽織い、銀色の巻き毛をいつにも増して丁寧に整え、輝かせている。さらに、出っ張った頬骨も上手な具合に顔半分を覆った仮面が誤魔化し、隈が濃い不健康な目元も隠されていたので、今の伯爵は、婦女子から見て魅力的な謎の貴公子であった。伯爵自身は、己の佇まいすら不気味なために避けられていると傷心していたが。ひそひそと色めきだった声が耳に入ると、伯爵のあまりよくない顔色はさらに青くなる。何故か入る時からずっと右手を握られていたジーナは、仮面の奥の表情は見えなくとも、彼の心の機微を感じていた。社交の場を地獄と感じる伯爵は、寝取られた小姓にも手を握ってもらっていた。気色悪い自覚はあったが、彼が恐怖に打ち勝つには温もりが必要だったのだ。例え15の少女に男装させ、手を握ってもらうという煉獄に送られそうな所業であっても、伯爵は頭を下げてお願いした。そして、その行為自体には屈辱を感じなかった。

 

 

 

「ああ、来てくれていたんだね。」

 

貴婦人方からの誘いをしどろもどろに断り続け、壁と同化することに徹していた伯爵と、料理やワインを彼のために運び、ちゃっかりと自分の分も確保し肉を無表情で頬張っていたジーナに、伯爵の苦しみの元凶が声をかけた。仮面を被った男爵の隣には、ジーナより少し背の高い、彼女と同じ年頃の小姓が控えていた。彼を見た伯爵は、息を詰まらせる。彼こそ、男爵とともに伯爵を苦しませる悩みの種、しかし恋い焦がれる天使でもある少年だった。伯爵は仮面の奥で目を潤ませたが、対する少年の感情は、仮面に隠れていた。

 

「エリク…君、エリクなのだね」

 

感極まった伯爵は、弱々しく、しかし熱がこもった掠れ声を出した。ジーナの右手を握る彼の手が、震える。

 

「お久しぶりです、伯爵様。」

 

少年は慇懃にお辞儀と温かい声で、親愛を示した。それだけで、伯爵は悲しみが癒された気分になった。隣の男爵は愛人と伯爵のやり取りに口は挟まず、仮面に覆われていない口元は微笑んでいる。

 

「元気そうで、よかった……。安心したよ。」

 

伯爵は微笑んで言った。そして、無言の少年の視線の先がジーナとつないだ手であることに気づき、焦って離す。ジーナは自分より位が高いと思われる少年に無言で会釈し、この場では置物になることを決めた。伯爵が天使のように語っていた少年を実際に目にし、彼女が考えていたのは、綺麗な薔薇には棘があるということだ。彼女はこの時伯爵の痴情のもつれに特に興味はなく、自ら危険に近寄る趣味はない、と考えていた。

 

「伯爵様は、お変わりありませんね。」

 

仮面の下から覗く口元は、春の女神のように、美しく微笑んでいる。しかし、彼は、仮面の裏で伯爵を侮蔑の目で見ているのではないか、何故かジーナはそう思った。当の伯爵は、彼の毒を感じているのかいないのか、曖昧な笑みでうん、と答えている。ジーナはこの時、伯爵の判断力に信頼を置いていなかった。

 

「積もる話もあるだろう、別室で「いえ」」

 

小姓を寝とった張本人である男爵が初めて口を開いた。伯爵とジーナがいぶかしむ前に、小姓本人が断ってしまった。ふいに少年が仮面を取る。仮面の下からは、聖画の天使の如く整った愛らしい顔が現れた。しかし、天使というには蠱惑な表情で、小姓は男爵に人目も憚らずすり寄る。ジーナは変わらず無表情だが、伯爵はショックで目を見開いた。

 

「男爵様はここ数日、舞踏会の準備でお忙しかったので、…私、二人きりの時間が欲しいのです。」

 

少年は男爵の耳元に、切なげに、囁くように言ったが、伯爵たちにも届く声量だった。伯爵たちに、それが彼の意思であると知らせるように。少年は男爵の胸に手を這わせ、首元の襟のボタンを外そうとする。かなり際どい図だが、背の高い伯爵が丁度影を作っているので、他の客は気にせず踊り続けている。男爵はため息をついて少年を制止すると、伯爵たちに向き直って仕方なさげに言った。

 

「やれやれ、仕方のない子だね…。では、今日はこれで、すまないね。舞踏会はまだまだ続くから、楽しんでくれ。」

 

男爵は、本当に申し訳なさそうな声色で詫びた。しかし、二人の去り際、男爵は少年の腰を抱いており、彼らが階上の小部屋で何をするのかは伯爵にもジーナにも予想がついた。少年の魔性の美に男爵が誑かされているのか、それとも…、と、ジーナが冷えた目で二人の関係を推察していた時、伯爵の大きな身体がふらりと揺らめいたので、驚いて支える。縦に長いが肉のない骨ばかりの身体は、思いの外軽かった。伯爵の健康が不安になったジーナは彼に声をかけようとして、彼が気を失っているのに気づいた。色恋沙汰で卒倒する人間などおとぎ話の中にしか居ないと思っていたジーナには、裸を見られたことよりも衝撃的な出来事だった。とはいえ、彼女は一つ深呼吸すると落ち着き、従者として自分のすべきことを考え始めた。

 

最中であろう男爵たちに頼むわけにもいかず、ジーナは一緒に来たはずの伯爵の使用人、御者を探し出し、二人で伯爵を馬車まで運び、煌びやかな屋敷を出て夜の森に抜けた。舞踏会に招待されたというのに、伯爵もジーナも踊るどころか、ろくに他の客と会話もしていない。使用人だけが、こっそり令嬢と踊っていた。そして、謎の長身の憂鬱そうな青年と、側に仕える有能な小姓の噂は二人の知らぬ間に社交界に広まる。

 

 

 

一方、馬車に揺られながら外の暗闇を見つめるジーナが考えていたのは、目を覚まさない伯爵のことでも、傾城の小姓でもなく、使用人を探す中、招待客たちがしていた噂のことだった。

 

 

 

「知っている?伯爵様の奥様、また…」

 

「今の前の愛人の小姓もね」

 

「流石に、ねぇ。巷では悪魔に生贄を捧げているなんて噂もあるよ。」

 

「失礼だわ!あれほど寛容で陽気で慈悲深いお方をそのように言うなんて!きっと不幸の星の下に生まれただけよ。」

 

「確かに彼は気がいいが…時々、彼の瞳を見ていると、底の見えない闇を覗いている気分になるんだよ。」

 

「あら、深淵を覗く方が浅い水たまりを覗くより楽しいものだわ。」

 

「こいつは、自分より婦人の注目を集める、神秘的な男に嫉妬しているんだよ。」

 

「なんだって?……その通りだよ!ははは」

 

「ふふふふふふふ」

 

 

 

男爵の奥方が亡くなったのは、彼らが口にした婦人で、三人目だった。さらに、愛人まで亡くなっている。妻を亡くすのはこの時代珍しいことでもないが、伝染病が流行ったわけでもないというのに、立て続けに亡くなったため、男爵が殺人狂だと、二人目の妻の後に愛人が亡くなった時から周辺では噂になっていた。それにもかかわらず、彼の身分のせいか、後ろ盾があるのか、噂は噂で止まり、それ以上追求しようと思うものはいなかった。社交界や貴族とは全く縁がないジーナの耳にも、噂は届いていた。しかしそれまでは、辺境領の平民のジーナには関係のない世界の話で、彼女はそれよりも明日の食料や冬支度について気を揉んでいた。しかし、今やジーナは伯爵の従者であるために、彼女に衣食住を提供してくれる伯爵の元愛人と友人のことは、従者であるジーナの明日にも関わりうることになっていた。伯爵はただ揶揄われ、心を弄ばれているだけかもしれない。しかしこの繊細な主人のこと、小姓が死んでしまったら自死か、一生ベッドから出てこないのではないかと、ジーナは懸念していた。伯爵に雇ってくれと頼んだ時の彼女は、気塞ぎ伯爵の従者が負う苦労を、毛ほども分かっていなかったのだ。

5
招かれず招く客

古びた鉄の扉がぎぎぎぎ・・・と不気味な音を立てて開き、招かれざる客が城に入る。石を叩くブーツの足音が近付くのを感じ、逃げ出したい衝動に駆られつつ、逃げる勇気もない伯爵は、客間をぐるぐると歩く。

 

男爵は物語に出てくるツァーリのように、美しい男だった。癖のある黒髪は艶やかに波打ち、鼻筋は綺麗に通り、巻き髭の下の薄紅の血色のいい唇は柔らかな弧をいつも描く。飛び出しそうに大きい青い瞳は、いつも子供のように爛々と輝いていた。肌はやや青みがかった白さだが、伯爵よりは血色がいい。そして、伯爵より健康的な、筋肉が程よくついた身体つきをしていた。伯爵は、骸骨に近い自分より男らしい男爵の身体を羨んでいた。

 

彼は、あの腕に抱かれたかったのだろうか、そう思って、伯爵はまた憂鬱になった。他人から見れば伯爵と男爵の違いと言えば、不健康か陰気のせいかぎょろついた目と、痩せた頰くらいのものだが、伯爵は全てにおいて自分は劣っていると感じてしまう。それでいて、愛人を寝取っておきながら、平然と自分を友人と呼ぶ男爵に疑念を抱きながらも、口車が上手い男爵に乗せられ、未だに彼を友人だと思っていた。だから、雪の中馬車で城を訪れた彼を通す許可を与えてしまったのだ。

ついに、客間の扉が開き、執事が男爵を連れて入ってきた。老いた執事は伯爵に一礼すると部屋を去り、伯爵は男爵と二人きりになってしまった。伯爵がそう命じたものの、いざ二人にされると大変気まずく、彼は執事への命令を後悔していた。

「久しぶりだね、イヴァン。病気が治ったようでよかったよ。」

伯爵より位は下の男爵は、対等な友人として伯爵が望んだように、あるいは己が望むように、気さくに伯爵の名前を呼ぶ。伯爵は自分の体調不良…対外的には病気と言っている…の理由を知りながら、不敵に笑う男爵に、怒りよりも恐怖を抱く。伯爵を寝取られ男と嘲ることも、悪いことをしたと詫びる様子もなく、一言も言及しない男爵が何を考えているのか、伯爵にはさっぱり分からない。男爵なりの気遣いなのだろうか?あまりに変わらない友人の態度を、伯爵は前向きに受け取ろうとした。

その時、伯爵は男爵が自分の背後を注視しているのに気づく。

「そちらの可愛らしいお方は…」

「ジーナ!何で、君が…」

男爵の視線の先には、下がっていろと言ったはずの、男装の少女が何食わぬ顔で真っ直ぐと背筋を伸ばして立っていた。小姓の衣装に身を包み、身綺麗にしている彼女は、男爵には貴族の少年に見えているだろう。

「新しい小姓かい?聡明そうな子だね。今度、ぜひお話がしたいな」

「お褒めに預かり、光栄です。」

一見朗らかに言う男爵だが、硝子張りの瞳はジーナを品定めしているようで、獲物を狙う蛇の瞳に似ている。伯爵は、思わず少女の肩を掴んで引き寄せた。一方のジーナは物怖じした様子も、照れる様子もなく、いつも通りの無表情と、抑揚のない澄んだ声で答えた。冷えた瞳は、男爵のきらきら輝きを放ちながらも伽藍堂な目を映している。

「…とりあえず、冷えているだろう。テーブルに」

ジーナから注意を逸らそうと、席につくことを勧める伯爵に、男爵はかぶりを振った。

「今日は近くを通ったついでに報せをしたかっただけさ。すぐ帰るから立ち話で大丈夫だ。」

「報せ?」

「手紙でもよかったんだが、狩りの帰りにちょうど君の城が見えたものだから。今度の新月の夜に、森の先にある、私の冬の館で舞踏会を開こうと思っていてね。帝都の貴族や楽団も来るから、是非来てくれたまえ。そこの愛らしい君も一緒に。君はあまり社交界に姿を現さないからね、皆喜ぶだろう。」

思わぬ誘いに伯爵は驚き、怯えた。伯爵は人、特に若い女性の多い、男女が睦まじく交遊する場が苦手である。第一、大勢の人と会話をすること自体、辺境の城に引きこもっている彼には考えるだけで苦痛だった。周辺の村にも幽霊伯爵として知られている彼は、社交界でも同じ名で通っている。行ったとして、気味悪がられるか、面白おかしく揶揄されるか、富を目当てに取り入ろうとされるだけの社交の場を、伯爵はできうる限り避けてきた。一部、伯爵に母性をくすぐられるという層もいるが、伯爵は知らなかったし、知っていたとしてますます舞踏会が恐ろしくなるだけである。

「見世物にされるのは…」

「仮面をつけるから大丈夫だろう。髪型も変えればわからないよ。君のように社交界が苦手な人も楽しめるためのものだから。」

「そうかい?…」

物怖じし、拒否感をあらわにする伯爵を男爵は説得しようとするが、なおも伯爵は乗り気でない。伯爵は踊りで婦人と触れ合うこと自体、苦手である。

「それに−–彼も、来るよ。」

「!」

伯爵の耳元で、男爵が囁いた。彼、意味する人物は一人だ。男爵がそう言った意図を考えるより前に、伯爵は是と答えた。いかなる不利益があっても、もう一度、彼の姿を見たいという思いに逆らえなかったのだ。無言でやり取りを見守っていた少女は、しっかり男爵の囁きも聞き取り、伯爵の動揺を冷えた瞳で見つめていた。

4
伯爵の新しいともだち

「それは、」

 

伯爵は言葉に詰まる。女嫌いの伯爵は、老いたメイドは雇えど、若い女性を雇うことを嫌がった。だから、城には殆ど妙齢の女性は居ない。数少ない若い女の使用人は、調理場など、伯爵が姿を見ないところで働いている。

 

性別を知った今、改めて彼女を眺める。整った顔をまじまじと見るうちに、一瞬目撃してしまった彼女の裸体を思い返す。あの曲線は確かに少年のものではなかった。羞恥と同時に、激しい吐き気が込み上げる。白い肌、甲高い声、無遠慮な手、いつもは封じ込めている記憶が溢れてくる。男装している今はともかく、ドレスを着た彼女を、女の格好をした少女を見れば、また記憶が蘇ってしまいそうだ。彼女には悪いが、断りたい。しかし、少女からは何か切羽詰まったものを感じる。孤児のようであるし、生活に困っているのかもしれない。それに、愛しい彼に捨てられた伯爵は、見た目は少年のような彼女を側に置き、心の傷を癒したいとも思った。毎日彼女の顔を見られたら、気も晴れそうだ。化粧をしていない顔は、涼やかな美人で、中性的。男装さえしていれば、負の記憶も蘇らないのではないか。

 

 

 

伯爵があれこれ悩み、黙り込んでいる間も、少女は無言で彼を見ている。執事は伯爵の顔色を伺っているが、何も言わない。外では昨日から降り続いている雪の勢いがますます激しくなっており、ヒュォォオオと凶暴な風が吹く。部屋の中では、暖炉の炎がパチパチと爆ぜ、壁に掛かった時計と枕元の金製の時計の針がカチカチと進む音だけが静寂に響く。

 

三者ともに一言も発さないまま、時計の針が時を刻む。

 

 

執事が腰に痛みを感じ始めた頃、ついに、伯爵は、意を決して口を開いた。そして、自分ながらに最悪な、気色の悪い提案をした。

「私は、女性が苦手なんだ。けど、男装している君のことは好ましく思う。だから、男装したままでいいなら、この城で、私のそばで働いて欲しい。」

伯爵に、少女の顔を真正面から見て言う勇気はなく、部屋の隅の壺に視線をやりながら、おどおどと、聞き取りにくい声で言った。

性に反する格好をするのは神の意に反することでもある。しかし女帝も男装姿で馬を駆ることもあるのだし、この辺境の村でするくらい、許されるだろう。自分のために異性装を強いるのは気が引けるが、出会った時から彼女は少年の格好をしていた。動きやすいからなのか、何か特別な事情があるのかは分からないが。だから、それ程突拍子もない申し出ではないはずだ…。

と、伯爵はギョロギョロした眼球を少女の顔を見ないようにあちらこちらへ回しながら考えていた。

 

「それだけでよいのですか。ならば、この姿のままで、お仕えさせてください。」

伯爵の心配をよそに、少女は眉ひとつ顰めることなく、承諾した。それどころか、騎士のように膝をつき、頭を垂れている。

「や、やめてくれ、そんなこと。」

恭しさに狼狽えた伯爵は少女の手をとって立たせる。女性の細い腕の感触がしたが、やはり少年の姿の彼女に嫌悪感は抱かなかった。

「彼が残していった服が丁度よさそうですね。小姓がいなくなったばかりなので、よかった。私が仕事を教えましょう。」

執事は何を咎めることもなく、少女を小姓の代わりに雇う気でいる。伯爵を一喜一憂させ、仕事に手をつかなくさせた彼よりも彼女の方が都合がよく見えた。また、平民なだけ彼女の方が働く意欲も高いと考えた。これまでは手に入らなかった衣服や食事が対価として提供されるのだ。

「よろしくお願いします。」

少女は執事に礼を言う。二人は伯爵をおいてこれからの仕事の話をし初めてしまった。あっさり頷かれたことに衝撃を受けたままの伯爵は未だオロオロと部屋の隅でしているままで、少女が業務について聞ける雰囲気でもなかった。

 

 

 

少女の名はジーナと言った。ジーナはその日から執事に読み書きを教わり、小姓の仕事も引き継いだ。執事が感心するほど彼女の飲み込みは早く、数年教育すれば貴族に劣らぬ学を身につけるだろうと伯爵に語った。

彼は下級貴族の出だったが、文字は怪しかったな、と伯爵はかつての愛人を思い返していた。伯爵自身は幼少期からの教育でそれなりの学はあるが、今まで小姓の教育をそれ程気にしたことはなかった。眺めているだけで満足であったし、衣服を着せてもらったり、宮廷や他の貴族との取り継ぎをしてもらう程度しか仕事をさせていなかったから。しかし、伯爵の放任主義とは裏腹に執事は少女にどんどん仕事をさせる気で、計算が得意なことが分かると、城の経理を手伝わせ始めた。ゆくゆくは領地の税の計算なども任せられるやもしれません、と息巻く執事に、それは自分がやるからと言おうとした伯爵は、臥せるたびに彼に庶務を任せていたことを思い出して反省した。

伯爵は彼女と共に夕食をとるようにした。彼ともそうしており、執事以外あまり腹を割れる相手のいない伯爵は、孤独が好きなようで嫌いだったからだ。彼女は伯爵の知らない、平民の世界の話をしてくれた。植物や動物に関する実体験に基づく話は、本を読むより面白く、伯爵は少女を散歩に連れ添わせ、あれは食べられるだの、これは薬に使えるだの、といった話を興味深く聞いた。二人で凍った川で釣りもし、魚は城に持ち帰って使用人にも与えた。執事は伯爵が外に出る機会が増えたのを、嬉しく思っているようだった。いつも幽霊のようだった伯爵の顔に生気が出てきたことを、彼に仕える使用人たちも好ましく思っており、年老いたメイドは彼女を孫のように可愛がるようになった。彼女は自分の今までの人生について話すことはしなかったが、端々からうかがえる苦労は、領主としての自分を伯爵に顧りみさせた。少女は贅沢を求めることはなかったが、伯爵が異国の菓子を並べた時などは、無表情ながら目を物珍しさに輝かせていた。

少女が来てから二週間、伯爵の日常は静かに変化していった。偶然森で出会い、愛人の代わりという下心を持って声をかけた少女は、年下の友人のような存在になりつつある。友人、その言葉に伯爵は考えないようにしていた男爵と愛人の姿をまた思い出してしまった。少女のおかげで伯爵はベッドからは這い出ることができたが、未だにことあるごとに彼の姿を思い出しては俯いている。

 

 

神に愛された美貌を持つ彼を、伯爵は天使のように崇めていた。美しい彼を、見ているだけで満足していた。伯爵は美しい少年たちを好んで側に置いてきたのは、彼らは大人の男女のように伯爵を誘惑してきたり、彼に関係を強いたり、無体を働かないからだ。だから、伯爵を慰めてくれる彼らにも、触れたいとは思わなかった。彼が求めてきた口付けには応じたが、啄ばむように軽く触れるだけで、それ以上深くすることもできなかった。だが、彼はそれが不満だったのかもしれない。初めのうち、純情な乙女のように、伯爵と話すのにも恥じらっていた彼は、伯爵が彼に首ったけであるのを確信すると、段々行いが大胆になった。

濡れた瞳でこちらを見てくる彼は、性別を超えて、恐怖の対象である人を思わせた。私に触れてください、と彼は伯爵の手をとって、その裸体を暴かせた。傷ひとつない白い肌は聖画の天使そのものだった。天使に触れようとは、思えない。何もしようとしない伯爵に痺れを切らした彼は、伯爵を押し倒し、伯爵の服も脱がせようとした。蒸せ返る香水の匂い、触れ合う肌、脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。伯爵は反射的に少年を突き飛ばし、初めて彼に声を荒げ、近づくなと言った。見たこともない、怒りの表情を浮かべた伯爵に怯えた彼が部屋を出て行った後、伯爵はこみ上げてくる胃液に我慢しきれず、吐いた。次の日も少年は今までと変わらず伯爵に仕え、睦言も囁いたが、以前は彼の瞳の奥に見えた熱が冷めたような気がした。伯爵はそれを、彼が自分の思いを理解したのだと都合よく勘違いしていた。

 

友人の男爵と彼を夜会で見かけ、二人がそのまま部屋に入っていくのを見たのはその一ヶ月後で、翌日彼は忽然と姿を消した。執事たちに捜索させたところ、彼は男爵の城に居り、彼を連れて男爵と会った半年ほど前から二人は関係を持っていたことを知った。天使だと思っていた愛人が色欲のために自分を裏切っていたと知っても、伯爵は彼を汚らわしいとは思わなかった。記憶の中の彼は、相変わらず聖人のような微笑みを浮かべていた。ただ、愛人に清らかさを求めながら、彼が望むこともできない自分が気持ち悪くて、伯爵は寝込み、義母や義姉たちに弄ばれていた幼い日に戻ったり、目の前で男爵と愛人が交わったりしている悪夢に魘された。

 

伯爵がまた降り積もる雪を見つめながら鬱屈とした想いに沈んでいた時、執事が来客の知らせを告げた。来客は、他でもない、愛人を奪った男爵だった。

3
人さらい

氷点下、氷で覆われた木々は、化け物の影を作り出す。冷たく深い森の中を、一人の男が馬に乗って通り過ぎる。絹の布地に豪華な刺繍が施されたジャケット、上質な毛皮のコートと立派な身なりではあるが、煌びやかな衣装と対照的に男の顔は陰気な表情を浮かべていた。顔立ちは整ってはいるものの、大きな碧い眼球はぎょろぎょろと辺りを見回し、肌色は寒さでますます青白さを増し、唇は寒さで紫がかっていた。鷲鼻と痩せこけた頬は顔の陰影を強め、不気味な雰囲気を醸し出している。幽霊伯爵と領民から呼ばれるその男は、気ふさぎで城で臥せってばかりいることで有名だった。生まれつき身体が病弱だった上、その生い立ちから心も繊細に育った。そのような性格で一年中寒い雪国に住んでいては、気が滅入るばかりである。けれども伯爵は中世に先祖が建てたゴシック様式の城の他、住むところを持たなかった。また伯爵の性格では、南国の熱い日差しに照らされても、その心の影は増すばかりであっただろう。

 

 先日も彼を気落ちさせることが起きた。愛人の小姓が、自分を捨てて友人の屋敷に行ってしまったのである。この裏切りは伯爵をかなり落ち込ませ、一か月以上彼は部屋でむせび泣いていた。毎日枕を濡らしていたが、流石に毎日甲斐甲斐しく自分の世話をし、領地の経営も手伝ってくれる老いた執事への罪悪感が悲しみに勝り、一週間前から執務を再開した。再開したはいいが、ペンを走らせていても小姓と友人が自分を嘲笑いながら睦み合う様子が脳内に描かれてしまい、全く集中できない。これでは駄目だと、突発的に馬を走らせて城壁の外の森に来たものの、心が晴れるわけでもなく、むしろ空気の冷たさに心の蔵も冷える気すらした。

 

 城から20分ほど馬を歩かせたところには、川がある。遥か北に行けば海につながるその川は、音も立てずに凍っている。

 

(この寒村から出られず、いや、陰鬱な古城に引き篭もっている私の心のようだ。)

 

伯爵の薄碧の瞳にまた陰が差す。暗い考えを振り払おうと遠くを見ると、川岸で氷に穴を開けて釣りをしている人影が見えた。馬を進ませて近づいてみると、その人影は少年であることがわかった。キャラメル色の髪は少し跳ね返っており、薄汚い身なりは農民のものに見える。しかし、彼は陶器の人形のように美しい顔立ちをしていた。普段の伯爵からは考えられない行動だが、人恋しさと、愛人の面影を求める心から、伯爵は馬を進めて少年の側に行った。

 

「やあ、何をしているんだい。」

 

伯爵はそういった遊びが得意ではない。舞踏会などでも、いつも端でじっと全てが終わるのを待っている。だから、気の利いた誘い文句を知らなかった。

 

「釣りですが。」

 

 少年の声はまだ声変わりしていない高い声で、それでいて落ち着いて凛とした声だ。綺麗な碧い目は伯爵のものより輝いている。少年の天使のような美しさに、伯爵は自分の下を去った愛人の小姓を思い出す。だが、小姓は見た目の愛らしさに加え、愛嬌があった、彼を悪く言う人は誰にでも媚びる魔性と評すが。一方、この少年は伯爵に興味も示さず、無愛想で冷たい。冬の精霊に話しかけたのかもしれない、と伯爵が一瞬思う程。そっけない返事を貰った時点で彼の繊細な心は折れかけたが、同時にその冷たさに惹かれた。

 

「そう、そうだよね…その、しばらく、眺めてもいいかい?釣りをするところを。」

 

 少年は怪訝な表情を隠さず、伯爵を見る。

 

「いや、あの、私、釣りってしたことがなくてね…特にこんな雪の日は。」

 

「…ご勝手にどうぞ。」

 

 貴族様の道楽は不可解だな、という顔だ。伯爵は馬から降りて、彼の側に座る。伯爵もてきとうに思いついた言い訳だったが、実際、体が弱くて冬は特に城の外に出ない伯爵は、釣りに馴染みがない。今は昔ほどではないが、少年の頃は雪の降る日に外を歩くだけで高熱を出した。

 

今も雪は降り続いているだろうが、少年は寒くないのだろうか。彼はシャツの上に何も来ていない。心配に思った伯爵が毛皮のコートを脱いで彼の肩にかけると、少年はますます怪訝な顔をしつつ、ありがとうございます、と簡潔に礼を述べた。

 

伯爵はしばらく凍てついた湖面を眺める。

 

ぴちゃっ ぴちゃっ

 

まだびちびちと暴れる小魚を少年が釣り上げた。見ると、バケツの中には結構な数の魚が溜まっている。銀色の鱗が鈍く光る、死んだ魚たちの虚ろな目。絶命した後も神経の反応でじたばたと暴れている魚を見ていると、伯爵は人生というものを想ってまた物悲しい気持ちになった。少年は構いもせず、淡々と釣った魚をバケツに放り込む。彼一人が食べるにしては多すぎる量だ。家族の分だろうか。着ている服からも、この凍てつく寒さの日に1人湖で釣りをしていることからも、少年の身分や暮らしぶりは想像できる。暖かい城の中で暮らし、食料を自分で調達する必要もない伯爵は、少年に申し訳ない気分になった。貴族の嗜みである狩りも伯爵は好きではなかった。動物が血を流すところを見るのも心苦しくなるからである。しかし、少年の目は爛々と輝いているわけではなくとも、魚のように死んではいない。伯爵の目よりもずっと強い意志を秘めた目だ。何か逞しさ、力強さのようなものを彼の翠の目には感じて、その強さに伯爵は勝手に惹かれた。同時に、領主としての責務を自分が果たしていないがために彼はこんな生活を強いられているのではないかと、罪悪感でまた弱い心臓が締め付けられた。

 

 

 

ずっと少年が釣りをするのを眺めていると、伯爵は自分も釣ってみたくなってきた。

 

「余っている竿はないかい?私も釣りをして見たい…」

 

「もう十分今日は釣れましたから、これをどうぞ」

 

「ありがとう」

 

「持っているだけで、しばらくすれば引っかかりますよ」

 

少年が言ったしばらくと言うのは30分以上のことで、少年が釣っていた時よりもかかりが悪い気がするが、伯爵は寒さに震えながらも気長に待った。30分以上たったころ、竿が震え、引き上げようとする。しかし、

 

「お、重い、」

 

「大きな魚かもしれません、」

 

「なんだろう、!これは、」

 

釣れたのは魚ではなく、鼠のような動物だった。

 

「これは面白い」

 

少年は真顔で呟いた。伯爵は興味津々でその生き物を見つめる。出不精な伯爵が実物を見たことがない動物はたくさんいる。

 

「もっと近くで見たいな」

 

そう言った伯爵は湖面に足を下ろし、氷上を歩く。氷の湖の上を歩いた経験もほとんどない。少年は無言で伯爵を見ていたが、伯爵の足元の氷にヒビが入ったのを見て、眉を寄せた。

 

「それ以上は危ないですよーー」

 

「えっ?」

 

少年の警告を耳にした伯爵が振り返った瞬間、氷が割れた。伯爵の片足が湖に沈み込み、勢いで周囲の氷も割れ、冷たい冬の水に伯爵の体は飲まれていく。

 

ついてない死に方だ、

 

と伯爵が早々に諦めた時、腕を掴まれた。コートを脱ぎ、シャツだけの少年が湖に飛び込み、革袋を浮き輪にして沈む伯爵を湖面に引き戻した。そのまま岸の石をつかんで、伯爵を手繰り寄せ、少年は自分もずぶ濡れになりながら岸に上がった。

 

伯爵は気を失ってはおらず、ぶるぶると震えて咳き込んだ。少年に手伝われながら水で重くなったジュストコールを脱ぎ、毛皮のコートを着る。少年が焚き火を焚いていて助かった。二人でしばらく暖をとる。伯爵は少年の行動にいたく感動した。目の前で貴人を見殺しにすれば自分が咎を受けると思ったからかもしれないが、静かな翠の瞳からは何もわからない。

 

「す、すまない、ありがとう…。」

 

「いえ、早くお戻りになってもっと暖まったほうがいいですよ。」

 

少年のシャツも濡れているが、彼はすぐ乾くと言って脱がない。もしかして、自分が男色家であることを読み取って警戒しているのだろうか、と伯爵は勘ぐってしまう。伯爵はそもそも男であれ女であれ誰かの裸に興奮することはないのだが、いきなりそんなことを言っては逃げられてしまう。少年の身体が心配だが、どうすればいいだろう。

 

「そうだな……君も私のせいで濡れてしまって寒いだろう、城に来ないかい?体を壊してしまうよ」

 

「……、私のような農民が、良いんですか?」

 

「助けてもらったんだ、当然だろう。それに、弱った者に門を開くのは領主の責務だよ、その、私はいい領主とは思われていないだろうけど…。」

 

「そう言って頂けるなら、わかりました。」

1
勘違い

伯爵は少年を後ろに乗せて城に帰った。途中で雪も降り始め、やはり少年をあの場に残さずに正解だったと、伯爵は自分の行動を正当化した。城門では、白髪の執事ドヴァレーツキイが主人を迎えに来ていた。彼は伯爵を見ると目を丸くした。愛人に逃げられふさぎ込んでいた主人が漸く散歩に出かけたと思えば、今度はみすぼらしい格好の少年を連れてきたのだ。

 

「この者は…」

 

訝しげな目で見つめてくる執事に伯爵は狼狽えながらも、主人らしく毅然とした、と彼が思っている態度で答える。

 

「私を助けるために川に入って濡れてしまったんだ。暖かい湯に入れて、汚れてしまった服を着替えさせてくれるかい。」

 

「川に!?何があったのですか!…お湯は時間がかかりますから、暖炉の前で待っていて下さい。着替えは、…彼のもので?」

 

主人も濡れていることに気づいた執事は仰天した。やっと城から出る気が起きたかと思えば、真冬の川に落ちるとは。いつまでも目が離せない主人である。

 

「ああ、背丈も似通っているし、大丈夫でしょう。」

 

執事は少年を一瞥すると、伯爵の耳元に囁いた。

 

「…伯爵様、ご傷心なのは分かりますが、誘拐は…」

 

「ちっ違、それは、出来れば小姓になって欲しいが、誘拐なんて!礼が済んだら家に返すに決まってるだろう!」

 

「そうですか、下心はおありと。まあ、伯爵様は誘拐など大胆なことはしませんな。しかし、田舎だからといってあまり身分の低いものを小姓にするのはおやめください。確かに目鼻立ちは整っていますが…」

 

「いいじゃないか、」

 

少年は、ひそひそと言い合う二人のことは気にする様子もない。それよりも、古びて幽霊でも出そうな中世の城の中を興味深げに見ている。十数年の人生で初めて、所々埃っぽいところはあるが、あばら小屋とは似ても似つかぬ貴族の館に足を踏み入れただろうに、この落ち着きぶりとは、余程肝が座っていると執事は感じた。

 

 

 

 

 

メイドが、浴槽が温まった湯で満たされたことを告げに来た。少年は執事に連れられて浴室へ向かう。不気味な見た目とは裏腹に、城の内装は現代風に改装されており、浴室も高価な調度品で彩られていた。粗末な木造のバーニャにしか行ったことのない少年は、西風の浴槽をみるのも初めてだった。執事に着替えを手渡された少年は、一人浴槽に浸かる。この寒い日に、暖かなお湯をすぐ用意できるとは。寂れた村の領主の城にしては、珍しい設備を整えているものだと、少し疑問に思う。目が眩む光を反射する鏡に囲まれた部屋で、陶器の浴槽の湯に浸かって農民の子供が落ち着けるはずがなかった。所在なさを感じながらも、少年は窓の外の雪を眺めながら、じっと浴槽に浸かっていた。厳しい冬が訪れてから、初めて体の芯まで温まった気がした。毎日この湯に浸かる伯爵を少年は特に恨めしくは思わない。彼は自分の生まれにこれといって何の感慨も抱いておらず、その社会的地位をありのままに受け入れて生きていた。むしろ、川で溺れそうなところを助けただけで厚遇をくれた伯爵に、少し好感を持った。そして……我が家の寒さを思い出し、生まれて初めて、あばら家に帰るのが億劫になってしまった。少年がそろそろお湯から上がろうとした時、伯爵は新品の下着があったので、少年に渡そうと思い立つ。人見知りの伯爵は、生まれた時から知っている、家庭教師代わりでもあった執事以外の使用人にはあまり声をかけたがらない。その執事が忙しそうにしていたため、伯爵は誰も呼ばずに、自ら浴槽に向かってしまった。

 

伯爵は長らくたった一人で浴室を使い続けていたので、扉を開ける前にノックをするとか、声をかけるということもせず、ドアノブに手をかける。少年を信用仕切ってはいない執事から鍵をかけないように言われていたため、扉に鍵はかかっていなかった。代わりに男性の使用人が見張りとして扉の横に立っていたが、伯爵と入れ替わりに仕事に戻っていた。つまり、不用意な伯爵が扉を開けるのを阻むものはなかったのだ。開いてしまった扉の向こうには、伯爵の弱い心臓が破裂してしまいそうな光景が広がっていた。

 

 

 

少年は身体を拭いている最中だったが、その身体は伯爵が予想していたものではない。あるべきものが見当たらず、あるはずのないものがあった。目の前の人物は、少年ではなく少女だったのだ。痩せ細った貧相な少女の裸を見たところで、好色でもないまともな大人ならさほど動揺しないかもしれない。伯爵は違った。彼は少女の身体に興奮しない。しかし、彼は少女の身体を見るなり真っ青になって震えだした。触れ合う肌、不快な感触、耳障りな矯声、少女の裸体を見た瞬間、伯爵は心の底に封じていた記憶を鮮明に思い出してしまった。余りにも強い心への衝撃に、伯爵はふらりとよろめくとそのまま崩れ落ち、気を失った。裸を見られても悲鳴も上げなかった少女は、手早く着替えると、使用人を呼びに走った。

 

 

 

伯爵は自室の寝台の上ですぐ目覚めたが、そのまま寝込んでしまったので執事は少女をどうするか迷ったが、日没後に外に放り出すわけにも行かないので、空いている使用人の部屋に泊めさせた。性別の間違いを訂正しなかったことは詫びているが、焦りも怯えも顔に出ていない少女に執事は少し感心した。ほぼ毎日ふさぎこんでいる伯爵に彼女の十分の一の精神力があれば。しかし、詳しくは自分の口からは言えないが彼にも致し方ない事情があるのだと、執事は少女には説明した。上の階で伯爵がうんうんと天蓋の下で唸っている頃、少女は羽毛布団の下で深い眠りに落ちた。少女は夢も見ないほど、深く深く眠った。

 

伯爵は悪夢に苦しみながら、翌朝まで寝込んだ。

 

 

 

 

 

朝、城の鶏の騒がしい声で少女は目を覚ました。窓の外を見ると、薄紫の帯が厚い雲の隙間から漏れ出ている。今日も雪が降る空模様だ。数百年前の石造りの城は冷え込む。しかし要所要所に暖炉があるし、いつも寝ている藁の上などよりはこの城の方が余程暖かかった。暖かいベッドの中から出るのは惜しいが、身分と場所を考えるとのんびり寝てもいられないと、少女は仕事を求め、部屋を出て人の気配がする方に向かった。

彼女が使用人に頼まれ、薪集めや鶏の餌やりなどをしている時、執事が姿を見せ、少女を伯爵の寝室に連れて行く。グロテスクな置物や何代前から使っているのかわからない家具がある伯爵の部屋は、中世の重厚さと最近の浮気な華麗さが混ざった不可思議な雰囲気を孕んでいた。中でも異質な淀んだ空気を排出している城の主、窓際に置かれている陶器の人形に負けず劣らず白い肌の伯爵は、ベッドの背もたれにもたれかかり、上半身だけを起こして何もない壁を見つめていた。伯爵は昨日に増して挙動不審で、少女に対して怯えており、大きな青い眼でそちらを伺ってはさっと顔をそらす。女嫌いの伯爵に間違いを訂正しなかったことを責められるのか、単に追い出されるのか、少女の方は彼の出方を伺い、じっとその顔を見る。

少女は、釣りの時に出会ったやたら奇麗な格好をした奇妙な男が自分の住む村の伯爵だとは知らなかった。不気味な城に住む幽霊領主と呼ばれていたが、成る程幽鬼のような佇まいだと思う。顔の造形自体は整っているが、鷲鼻と窪んだ眼窩、こけた頰にぎょろぎょろとした目、白粉なのか地か青白い肌、長い銀髪という伯爵の容姿は絵に描いたような不気味さを持つ。少女がそんな怪しい人物についていった理由には、貧しい生活を紛らわせられる金品でも貰えるかもしれないという打算もあったが、純粋な好奇心が大きかった。この伯爵についてもう少し知りたい、少女の心の奥から不思議と湧き上がる好奇心が囁く。それに、少女は伯爵の愛人だか小姓だか僕だかになってでも、あばら家に帰りたくなくなっていた。

 

 

 

数分の沈黙に耐えられる心臓もない伯爵が、先に口を開く。

 

「君は、女の子、だったのだね……その、昨日は大変無礼なことをした。」

 

伯爵は少女の目を見ずに謝罪する。どうやら、彼女を咎める気はないらしい。

 

「いえ、性別を言わなかった私の落ち度です。」

 

とはいえ、貴族の非を認める程伯爵を信用していない少女は自分の責任も強調しておいた。

 

「でも、貴族の私がついてこいと言ったら、断れないだろう。私が君を少年だと思っていたことも、明らかではなかっただろうし…。兎に角、君には世話になったし、迷惑もかけてしまった。何か、礼をできないだろうか。」

 

伯爵は少女が驚く程腰が低かった。この人は本当に貴族なのだろうか、それともそれが領主や貴族の礼節というものなのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい、大事なのは、彼が礼をする気があるということ。少女は逡巡するが、すぐに決意する。少女はためらわずに、昨日から考えていた願いを口にした。

 

「私を使用人としてここで働かせてください。知っての通り体力には自信があります。文字も少しは読めますし、これからも勉強します。料理の手伝い、荷積み、何でも致します。どうか働かせてください。」

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