伯爵は少年を後ろに乗せて城に帰った。途中で雪も降り始め、やはり少年をあの場に残さずに正解だったと、伯爵は自分の行動を正当化した。城門では、白髪の執事(ドヴァレーツキイ)が主人を迎えに来ていた。彼は伯爵を見ると目を丸くした。愛人に逃げられふさぎ込んでいた主人が漸く散歩に出かけたと思えば、今度はみすぼらしい格好の少年を連れてきたのだ。

「この者は…」

訝しげな目で見つめてくる執事に伯爵は狼狽えながらも、主人らしく毅然とした、と彼が思っている態度で答える。

「私を助けるために川に入って濡れてしまったんだ。暖かい湯に入れて、汚れてしまった服を着替えさせてくれるかい。」

「川に!?何があったのですか!…お湯は時間がかかりますから、暖炉の前で待っていて下さい。着替えは、…彼のもので?」

主人も濡れていることに気づいた執事は仰天した。やっと城から出る気が起きたかと思えば、真冬の川に落ちるとは。いつまでも目が離せない主人である。

「ああ、背丈も似通っているし、大丈夫でしょう。」

執事は少年を一瞥すると、伯爵の耳元に囁いた。

「…伯爵様、ご傷心なのは分かりますが、誘拐は…」

「ちっ違、それは、出来れば小姓になって欲しいが、誘拐なんて!礼が済んだら家に返すに決まってるだろう!」

「そうですか、下心はおありと。まあ、伯爵様は誘拐など大胆なことはしませんな。しかし、田舎だからといってあまり身分の低いものを小姓にするのはおやめください。確かに目鼻立ちは整っていますが…」

「いいじゃないか、」

少年は、ひそひそと言い合う二人のことは気にする様子もない。それよりも、古びて幽霊でも出そうな中世の城の中を興味深げに見ている。十数年の人生で初めて、所々埃っぽいところはあるが、あばら小屋とは似ても似つかぬ貴族の館に足を踏み入れただろうに、この落ち着きぶりとは、余程肝が座っていると執事は感じた。

 

 

メイドが、浴槽が温まった湯で満たされたことを告げに来た。少年は執事に連れられて浴室へ向かう。不気味な見た目とは裏腹に、城の内装は現代風に改装されており、浴室も高価な調度品で彩られていた。粗末な木造のバーニャにしか行ったことのない少年は、西風の浴槽をみるのも初めてだったが、直感的にこのお湯で温まれと言われていることは理解した。執事に着替えを手渡された少年は、一人浴槽に浸かる。この寒い日に、暖かなお湯をすぐ用意できるとは。寂れた村の領主の城にしては、珍しい設備を整えているものだと、少し疑問に思う。目が眩む光を反射する鏡に囲まれた部屋で、陶器の浴槽の湯に浸かって農民の子供が落ち着けるはずがなかった。所在なさを感じながらも、少年は窓の外の雪を眺めながら、じっと浴槽に浸かっていた。厳しい冬が訪れてから、初めて体の芯まで温まった気がした。毎日この湯に浸かる伯爵を少年は特に恨めしくは思わない。彼は自分の生まれにこれといって何の感慨も抱いておらず、その社会的地位をありのままに受け入れて生きていた。むしろ、川で溺れそうなところを助けただけで厚遇をくれた伯爵に、少し好感を持った。そして……我が家の寒さを思い出し、生まれて初めて、あばら家に帰るのが億劫になってしまった。少年がそろそろお湯から上がろうとした時、伯爵は新品の下着があったので、少年に渡そうと思いたつ。執事は忙しそうにしており、また、人見知りの伯爵は、生まれた時から知っている、家庭教師代わりでもあった執事以外の使用人に声をかけることもあまりしたくなかった。なので誰も呼ばずに、一人で自ら浴槽に向かってしまった。

伯爵は長らくたった一人で浴室を使い続けていたので、扉を開ける前にノックをするとか、声をかけるということもせず、ドアノブに手をかける。少年を信用仕切ってはいない執事から鍵をかけないように言われていたため、扉に鍵はかかっていなかった。代わりに男性の使用人が見張りとして扉の横に立っていたが、伯爵と入れ替わりに職務に戻っていた。つまり、不用意な伯爵が扉を開けるのを阻害するものはなかったのだ。開いてしまった扉の向こうには、伯爵の弱い心臓が破裂してしまいそうな光景が広がっていた。少年は身体を拭いている最中だったが、その身体は伯爵が予想していたものではない。あるべきものが見当たらず、あるはずのないものがあった。目の前の人物は、少年ではなく少女だったのだ。痩せ細った貧相な少女の裸を見たところで、好色でもないまともな大人ならさほど動揺しないかもしれない。伯爵は違った。彼は少女の身体に興奮しないが、真逆の反応をする。触れ合う肌、不快な感触、耳障りな矯声、少女の身体を見た瞬間、伯爵は心の底に封じていた記憶を鮮明に思い出してしまった。余りにも強い心への衝撃に、伯爵はふらりとよろめくとそのまま崩れ落ち、気を失った。裸を見られても悲鳴も上げなかった少女は、手早く着替えると、使用人を呼びに走った。

伯爵は自室の寝台の上ですぐ目覚めたが、そのまま寝込んでしまったので執事は少女をどうするか迷ったが、日没後に外に放り出すわけにも行かないので、空いている使用人の部屋に泊めさせた。性別の間違いを訂正しなかったことは詫びているが、焦りも怯えも顔に出ていない少女に執事は少し感心した。ほぼ毎日ふさぎこんでいる伯爵に彼女の十分の一の精神力があれば。しかし、詳しくは自分の口からは言えないが彼にも致し方ない事情があるのだと、執事は少女には説明した。上の階で伯爵がうんうんと天蓋の下で唸っている頃、少女は羽毛布団の下で深い眠りに落ちた。少女は夢も見ないほど、深く深く眠った。

 

 

伯爵は悪夢に苦しみながら、翌朝まで寝込んだ。

 

 

朝、城の鶏の騒がしい声で少女は目を覚ました。窓の外を見ると、薄紫の帯が厚い雲の隙間から漏れ出ている。今日も雪が降る空だ。数百年前の石造りの城は冷え込む。しかし要所要所に暖炉があるし、いつも寝ている藁の上などよりはこの城の方が余程暖かかった。暖かいベッドの中から出るのは惜しいが、身分と場所を考えるとのんびり寝てもいられない。少女は仕事を求めて、部屋を出て人の気配がする方に向かった。彼女が使用人に頼まれ、薪集めや鶏の餌やりなどをしている時、執事が姿を見せた。少女は伯爵の寝室に連れて行かれた。グロテスクな置物や何代前から使っているのかわからない家具がある部屋は、中世の重厚さと最近の浮気な華麗さが混ざった不可思議な雰囲気を孕んでいた。中でも異質な淀んだ空気を排出している城の主、窓際に置かれている陶器の人形に負けず劣らず白い肌の伯爵は、ベッドの背もたれにもたれかかり、上半身だけを起こして虚空を見つめていた。伯爵は昨日に増して挙動不審で、少女に対して怯えており、大きな青い眼でそちらを伺ってはさっと顔をそらす。女嫌いの伯爵に間違いを訂正しなかったことを責められるのか、単に追い出されるのか、少女の方は彼の出方を伺い、じっとその顔を見る。少女は、釣りの時に出会ったやたら奇麗な格好をした奇妙な男が自分の住む村の伯爵だとは知らなかった。不気味な城に住む幽霊領主と呼ばれていたが、成る程幽鬼のような佇まいだと思う。顔の造形自体は整っているが、鷲鼻と窪んだ眼窩、こけた頰にぎょろぎょろとした目、白粉なのか地か青白い肌、長い銀髪という伯爵の容姿は絵に描いたような不気味さを持つ。少女がそんな怪しい人物についていった理由には、貧しい生活を紛らわせられる金品でも貰えるかもしれないという打算もあったが、純粋な好奇心が大きかった。この伯爵についてもう少し知りたい、少女の心の奥から不思議と湧き上がる好奇心が囁く。それに、少女は伯爵の愛人だか小姓だか僕だかになってでも、帰りたくなくなっていた。

 

数分の沈黙に耐えられる心臓もない伯爵が、先に口を開く。

「君は、女の子、だったのだね……その、昨日は大変無礼なことをした。」

伯爵は少女の目を見ずに謝罪する。どうやら、彼女を咎める気はないらしい。

「いえ、性別を言わなかった私の落ち度です。」

とはいえ、貴族の非を認める程伯爵を信用していない少女は自分の責任も強調しておいた。

「でも、貴族の私がついてこいと言ったら、断れないだろう。私が君を少年だと思っていたことも、明らかではなかっただろうし…。兎に角、君には世話になったし、迷惑もかけてしまった。何か、礼をできないだろうか。」

伯爵は少女が驚く程下手だった。この人は本当に貴族なのだろうか、それともそれが領主や貴族の責務というものなのだろうか。いや、そんなことはどうでもいい、大事なのは、彼が礼をする気があるということ。少女はためらわずに、昨日から考えていた願いを口にした。

​「私を使用人としてここで働かせてください。知っての通り体力には自信があります。文字も少しは読めますし、これからも勉強します。料理の手伝い、荷積み、何でも致します。どうか働かせてください。」