イーゴリの夜
兄が亡くなってから、信頼できる話し相手を失ったイーゴリはますます寡黙になり、毎日黙々と家族のために働いた。今のところただ一人の妹であるジーナに、兄がしてくれたように寝物語を語ったり、文字を教えたりしたかったが、イーゴリは兄程文字は読み書きできなかったし、時とともに記憶も薄れてしまった。そして毎日朝から晩まで身体を動かして働いているイーゴリは、妹の相手をする余裕もなく、ペチカの上に転がるなり泥のように眠ってしまう。
家畜も寝静まった夜、男と女の怒鳴り声がすきま風吹くボロ小屋に響き渡る。昔からよく聞く不毛な罵り合いの応酬は、年々ひどくなる。イーゴリは何故互いを忌み嫌う両親が結婚したのか疑問に思っていたが、当時の領主の采配の下、無理矢理結婚させられたのだと知って合点がいった。若い頃の母は農民の娘の中で際立って美しかったが、一度貴族に遊ばれた後、天然痘のために醜男と言われた父と結婚させられたのだと、酒場で噂好きの鍛冶屋が話していたのを聞いたのだ。それでイーゴリは自分たち家族が村の中心から外れた森の近くに住む理由も、なんとなく理解した。
「わたしは貴族に見初められた女だってのに、なんであんたなんかと…」
「その貴族様の命令だろうが!だいたい、あの好色ジジイならどんな女のベッドにも喜んで行っただろうさ!!」
「そりゃぁあんたの顔じゃぁ…」
父に対する怒りが頂点に達した時、自分の境遇がやるせなくなった時、母はいつもは口にも出さないのに、貴族のお手つきになったことを誇らしく言う。しかし実のところ母のような女性は村に何人もいたらしく、それは彼女と自分たち家族をますます惨めにするだけだった。母も自身の言葉で傷ついているのだから、言った本人の得にもならない自慢というのは不思議にあるものだとイーゴリは知った。
「この腐れ女!!!」
「醜男!!!!!」
ガシャン、ゴトン、と物が倒れたり割れたりする音がする。新しい家具や食器を買う余裕もないのに、なけなしのものくらい大切に使えとイーゴリは思っていたが、幼い時の教訓で、こうなった両親の間に入るべきではないと知っていた。こちらまで火の粉が飛んできて、傷を負う羽目になるからだ。罵り声や悲鳴が家の中に響き、ガタガタ揺れる窓の向こうからはビュウビュウと風が吹き付ける中、イーゴリはずっと隣で眠るジーナの耳を両手でふさいでやった。