3人の再会
日が沈み、ランタンなしでは手元も見えない暗闇が広がる。伯爵一行は森と草原の境にある川辺で野営をしていた。一応城から駆けつけた兵士が数人、剣もあるものの、コサックや盗賊に襲われたらと執事は気が気ではない。しかし、いつにない伯爵の強い剣幕に押されて、また少年の話を真実だとするならば、城に引き返すことを強く主張することも憚られた。老体が動けばいいが、と、執事は一人剣を振るって体を動かしている。柔和な顔をしていた老人の逞しい腕を見て、ジーナの弟、ムハイロは夢中で彼の剣さばきを見ている。一眠りしてから、彼は本来の明るさを取り戻していた。一方の伯爵はといえば、夕暮れまでには追いつくと思っていたジーナの姿はさっぱり見当たらず、この広大な土地で彼女を見つけ出す望みを早くも失い、弟に断言したことも忘れ、沈痛な面持ちで焚き火を眺めていた。
ジーナは今頃どうしているのだろうか。売春宿に売られたり、慰め者にされたりしていないだろうか、もしや南の異教徒に売られ、国境を超えているだろうか。いや、いくら駿馬でも、まだ国境は超えられまい…。
静まり返った夜の森の中では、伯爵の想像は悪い方向へ進むばかりである。
「私のせいだ……私が、家に帰したから……。」
項垂れている伯爵を、面倒臭そうに兵士たちが横目で見ている。村娘一人のために城を空けるとは、余程伯爵は彼女にご執心らしいと、彼らは完全に少女と伯爵の関係を誤解していた。さらに、伯爵は城の中で意中の少女を男装させて側に置くのが趣味の倒錯者として認識されてしまっていた。
「伯爵様!」
一人己の罪に苦しんでいる伯爵は背中に重みを感じた。ムハイロがのしかかってきたので、伯爵の薄い胸板が圧迫され、うめき声が上がる。全く上の身分への態度の取り方の分かっていない少年の縦横無尽な振る舞いを伯爵は注意するわけでも怒るわけでもなく、なんとか笑顔を取り繕って答える。
「なんだい?」
「眠くなってきたから、また子守唄歌って!」
少年は満面の笑みで伯爵に要求する。兵士たちも執事も唖然とした。それは少年の身の程知らずぶりに呆れたのではなく、彼らからすれば墓の下で死者が歌っているような不気味な伯爵の子守唄を、少年が気に入っていたことに驚愕していたのだ。確かに伯爵の歌は音程はあまり外しておらず、記憶が朧げな歌詞の拙さを除けば上手い部類であり、その声質も悪くはない。しかし、低く、囁くような掠れ声が時折震えるのはなんとも不穏な旋律を生み出していた。
「怖くて悪霊も追い払えそうだった!」
少年はその不気味さに、魑魅魍魎を祓う魔力を感じていた。伯爵は照れて頭をかき、歌おうか逡巡するが、兵士と執事の耳を気にして、やはり子守唄を歌うことはためらった。
「ここでまた歌うのは少し恥ずかしいな……。そうだ、代わりに君のお姉さんの話をするのはどうだろうか。」
「ジーナのこと?それなら俺、知ってるよ。」
「そうだろうね。でも、ジーナは城にいた間、勇者に負けない活躍をしたよ。」
「えっ!嘘だろ!」
姉の英雄譚に弟は食いついた。伯爵は得意げに、男爵から彼を救ったジーナの話を、分かりやすく、かつ小さい子に聞かせても悪影響がないように脚色して話した。一連の騒動の詳細を知らなかった兵士たちも、興味深げに聞き耳を立てている。
「…そうして、ジーナのおかげで悪魔の男爵は捕まったんだ。」
今だに親友だと思っていた人物の所業を知らなかったこと、裏切られたこと、エリクのことの傷が癒えていない伯爵は少し胸を痛めながら、物語を話し終えた。少年は眠るどころか目を覚まし、大きな青い目を輝かせて伯爵の話に耳を傾けていた。しかし、最後に感嘆の声を上げた後、不思議そうに伯爵に尋ねた。
「昔話の主人公と同じように伯爵様を助けたのに、どうしてジーナはご褒美をもらえないの?」
身の程知らずな少年の質問に、老執事が笑顔で割って入る。
「伯爵様はジーナに十分、報酬を与えましたよ。」
そもそもジーナが伯爵を助けたというのは伯爵の主観であって、客観的に、というか執事からしてみれば勝手な行動をして捕まったジーナを伯爵らが助けたのだ。ジーナが動かなければ伯爵も動かず、エリクは死に伯爵は引きこもり、男爵は殺人を続けていたということは執事にも否定し難い可能性であったが。故に、執事からすれば伯爵はジーナに十分相応の対価を払ったと言えた。しかし、答えを得てなお、少年は納得していない表情をしている。伯爵の話の中ではジーナが男爵を蹴散らしていたこともあり、彼の中では、大貴族を助けた姉に相応しい報酬は皇妃や皇太子妃になるぐらいのものでなければならないのだった。
「あれだけでは、全然、足りないよ…。もっとたくさん、お礼をしたい。」
伯爵は執事に向かって首を振る。伯爵自身、ジーナへの礼は足りないと考えていた。男爵のことを除いても、彼女は彼の無理な願いを聞いて男装して小姓として仕えてくれたのだ。家臣として働いたジーナに自分がしたことといえば、心の底では帰りたくなかったであろう家に帰したことだと思い当たって、伯爵はまた顔を両腕に埋める。伯爵からすれば微々たる給金しか要求しない少女の無表情な顔を思い浮かべながら、伯爵は疑問を口にする。
「ジーナは、何が欲しいのだろうか。」
「さあ、ジーナは変わってるから。宝石とか髪飾りとかレースとか、興味がないんだ。牛や馬や魚のことは詳しいけど…。あ!そういえば、昔、海が見たいって言ってたよ。」
ムハイロも伯爵と一緒に悩むが、昔、釣りの時に姉がふとこぼした言葉を思い出した。
「そうか、ジーナや君は海を見たことがないのか。」
伯爵は領民が自分の土地に縛られていることを今更再認識する。そしてジーナが城壁の外の世界に興味があったことを意外に思ったが、考えてみれば当然かと、自分の思い込みを恥じた。
「生まれてからずっとこの村にいるから。ねえ、海って本当に綺麗なの?」
「私も一、二度しか見たことはないけれど、青空の下の海は本当に美しくて、天国のようだったよ。ジーナを取り戻したら、彼女に海を見せに行こう。その時は、君や妹さんも一緒に来るかい?」
伯爵のやや無責任な提案に、ムハイロは頷き、夢を語る。
「本当?俺、大きくなったら、旅に出たいと思ってたんだ。ジーナには無理だって言われるだろうけど…。」
「そうかい?君がちゃんと大人になって、自分で考えて望んだことだったら、ジーナは応援してくれるだろう。」
「そうかなあ…そうなら、いいなあ…。」
伯爵と少年が和気藹々と語り合ううちに夜は更け、いつの間にか二人は眠り込んでしまった。執事と兵士たちは久々に明るい表情の主人を和やかに見守っていた。二人は三十路前の青年と子供というより、同年代の友人のようだったが、そのことには誰も触れなかった。
朝日が昇ると共に、伯爵たちは再び行動を始める。しかし、一本道は何本にも分かれはじめ、近くには焚き火の煙も登っておらず、人気もない。そもそも、進む方向が合っているのだろうかと地図を見つめながら伯爵と執事が悩みこんでいた頃、夜中馬車を飛ばしてきた城からの使者がやってきた。男爵の一件の際、伯爵が保護した商人の娘から、ジーナを街で見かけたという便りが伝書鳩で届いたそうだ。彼女によれば、ジーナは異国の商人風の男と一緒にいて、男性用の衣装を身につけていたらしい。一瞬見間違いかと思ったが、近寄って見てもそっくりで、声も聞き覚えがあったという。伯爵たちは急いでレーシャの言う街へ馬を飛ばした。
伯爵は人混み、都市の喧騒が苦手である。無数の視線が自分に集まっている気がするからだ。今日に限ってはそれは間違いではなく、綺麗な貴族の身なりをして、帯剣した男性を引き連れた彼は、この田舎街では目立っていた。当の伯爵は野宿によって乱れた格好と体臭を気にしていて、ジーナを必死に探しつつも、香水を首と上着に吹きかけたりと忙しい。町人の中で浮いた一行はジーナを連れていた人物が商人だったという情報を元に、市場や広場でそれらしき人影を探す。ジーナと商人を人の往来の中に探す伯爵たちの視界に、彼らの胸にも届かない身長の少年は入っていない。ムハイロは、初めて見る都市の景色に目を奪われ、やや目的を忘れていた。伯爵に声もかけず、彼は一行の群れを離れて、広場で行われていた珍獣の見世物の方に駆け出した。折り悪く、それは横から馬車が通りかかっていた時だった。
「危ない!」
御者が悲鳴をあげて手綱を引くが、急に馬は止まらない。その声に気づいた伯爵たちが駆け寄ろうとしたが間に合わない。その時、群衆の中から人影が飛び出し、ムハイロを抱えて一緒に石畳の上を転がって、なんとか馬車を避けた。
「周りに気をつけろ、馬車に轢かれたら死ぬか、足や腕がなくなるぞ。」
親切だが子供相手に容赦のない忠告をする命の恩人の顔を見たムハイロは、歓喜してその名前を呼び、相手に抱きついた。
「ジーナ!!!ジーナだ!!!!」
「大丈夫かい、ムハイロ!この子を助けて頂いて、どうもありが…。」
ムハイロの声は周囲の喧騒や急停止して荷物をひっくり返した馬車の御者の怒声に飲まれて伯爵には聞こえておらず、息切れしながら見知らぬ人物に礼を言おうとした伯爵は、その顔を見て叫んだ。
「ジーナ!!!」
伯爵の目の前に佇む少女は、変わらない無愛想な顔で、彼を見つめていた。しかし、その声の僅かな抑揚と、少し見開かれた鳶色の目は、驚きを示していた。
「伯爵様……。」
喜びの踊りを始める少年、黙って互いの顔を見る貴族らしき青年と少女に周囲が好奇の視線を投げかける中、執事と兵士以外の人影が彼らに近づいていた。
「急に走り出すな…おや、貴方がたは…。」
ジーナに注意しようとしたその黒髪の男は、伯爵たちを見ると笑みを浮かべ、恭しくお辞儀をした。彼は伯爵の上着と似た形状の長い上着を羽織っていたが、彼のものはより上質な布に異国の模様が染め付けられていて、その手には高価な宝石の指輪が何個も嵌められている。男の異国趣味で美しい身なりに思わず伯爵が見入っている間に、勘違いした男は売り込みを始めた。
「私、イサークと申しまして、砂漠の国から輸入したものを売っております。お客様もおひとついかがでしょうか?」