伯爵の祖父
ジーナが去ってから二ヶ月が経った。突然のことに城の使用人たちも驚き、残念がっていたが、彼らが何より心配していたのは、心臓の弱い伯爵がまた塞ぎ込まないかということだった。意外なことに、伯爵は初めの一週間ほどは、毎朝規則的に起きて、珍しく狩りなどに出かけ、もっともやっと仕留めた野ウサギへの罪悪感でその肉を喉が通らないなど、全く向いていないことを再確認しただけだが、経済学や農業の読書に勤しみ、何かをせっせとノートに書き込んでいた。しかし、7日目頃から雲行きが怪しくなった。伯爵のため息の回数が増え、目の隈は濃くなり、眠れない夜はヴァイオリンの悲しげな旋律を城に響かせた。孤独を紛らわせようと、伯爵は読書会や茶会に赴いたが、男爵やエリクのことは思い出すわ、女性は相変わらず怖いわで、その度に憔悴した顔で戻ってきては二日は引きこもった。城の中には再び陰気な空気が篭り、新入りの兵士たちなどは暇乞いを始める始末だ。頭痛に悩まされる年老いた執事は、広がった書類とノートの前で頭を抱え、沈んでいる伯爵を早く立ち直らせようと、言葉をかける。伯爵の自領は城下の村だけではなく、仕事は溜まっていた。
「あの娘がいなくなって寂しいのは分かりますが、元気を出されてください。」
「わかっている…わかっているよ……はぁ……。」
伯爵は朝から一応机に向かってはいるが、30分に一回はため息をつき、物思いにふけるばかりでほとんど書類の山は減っていない。それは彼が領主としての実質的な仕事を始めた十年前からよく見る光景だったが、ここしばらくジーナのおかげでよく動く伯爵に慣れてしまっていた執事は、思わず愚痴をこぼしてしまう。
「お祖父様が今の城を見られたら、なんとおっしゃるか……。」
言葉が空気に吸い込まれてすぐ、執事は失態を犯したことに気づいた。
「私は、祖父のようにはなれないさ…」
伯爵に祖父ディエドゥースという単語は発してはいけない。彼と真逆の性質の、豪胆で女好きな彼の祖父、先先代の伯爵を、今の伯爵、イヴァンは幼少から恐れていた。実のところイヴァンの父が伯爵であったのはわずか1、2年のことであり、それまでは存命の祖父が伯爵位を持っていた。イヴァンの父は、祖父に比べてよく言えば柔和、悪く言えば流されがちな性格であり、また息子には優しく接し、叱ることもほとんどなかった。しかし祖父は身体も心も弱い孫を情けなく思っており、父親共々怒鳴りつけ、もっとも祖父はいつも誰かに怒鳴っていたが、身につかない剣や銃や馬の稽古をさせたり、共に狩りに行かせたりした。祖父は大戦争においてかのコサックが皇帝に反旗を翻した時、皇帝の側につき、領地を維持し、爵位を手にした。伯爵の執事は、その時から祖父に仕えていた兵士で、彼の命を救ったこともあるため大変信頼を受けていた。泣きながら謝る幼い伯爵に癇癪を起こす祖父をうまく宥められたのは執事だけだった。イヴァンの祖母は伯爵が引き籠っている城を建てた領主の血を引く娘だったが、祖父を愛せず、結婚生活に心労が溜まった彼女は早逝してしまった。厳しい父と田舎から逃れたかったイヴァンの父は、学業のために帝都に留学してから、しばらく帝都に住んで帰らなかったが、結局祖父から資金の支援を断たれ、また脅されたために領地に戻った。その時、帝都で知り合ったイヴァンの母と結婚したのだが、母は次の冬に彼を産んですぐ死んでしまった。
イヴァンの父は妻が死んでからはしばらく独り身だったが、寂しさと父からの圧力からよく帝都の社交界に出かけ、そこで知り合った貴族の未亡人と再婚した。ちょうどその頃、祖父が長年悩まされてきた心臓病で亡くなり、伯爵の父が爵位を継いだ。病気がちだったイヴァンは父が帝都にいる間も城にいた。そして、父はろくに領地を管理する時間もないまま、伯爵が11歳の時に事故で死んでしまった。未成年で病弱の伯爵の代わりに後見人の義母が領主として経営を行い、また遺産を管理した。結婚した時に書いたらしい、父の遺書にもそう指示があったのだ。義母に口答えをした執事は城から追い出され、自らの小さな領地に帰るしかなかった。そうしてイヴァンの身に何が起きているかも知らぬまま、ただ歯がゆい思いをしていたのだ。イヴァンは身体が大きくなっていっても、心を支配していた義母や義姉に抵抗できなかった。義母の気に入らないことをして頰を叩かれても、背だけ高いイヴァンは身動きも取れず、頰を涙で濡らしていた。そして6年が過ぎ、一生義母の言いなりの玩具としての人生を送るのだと諦めていた時、偶然の客人のおかげで伯爵は城の主になることができたのだ。
伯爵の脳裏には、走馬灯のように亡き祖父の思い出、彼の怒声が蘇っていた。
「貴様は女のような顔をしおって、剣も銃も満足にできないとは!」
「いちいち泣くな!!あいつの教育も悪い、都にばかり行って、社交会には連れて行くが兵書も読ませず武術も教えず…!未だ反乱は絶えないと言うのに!陛下の役に真に立つ貴族になるには帝都の骨なしどもの真似だけをしていても駄目だ!!」
「学識も西と東の大国に張り合う我が帝国の発展には必須だ。イヴァン、お前歴史や算術、修辞学の課題はやったのか?」
「貴様!!わざわざ帝都から教師を呼んでやったというのに!!!祖国の言葉だけしか理解せぬようでは西の貴族どもに馬鹿にされるわ…!」
「少し頬を打たれたぐらいで泣くな!」
自分が何を言っても怒りの止まらない祖父に対して、伯爵は泣いて謝り続けた記憶ばかりが蘇る。彼は祖父を尊敬していたが、それ以上に恐れていた。遠目に見たことしかない皇帝より、幼き日の伯爵には祖父がツァーリらしく見えたものだ。