麦畑日の出

ジーナの不在

その日、伯爵は女帝に謁見にでも行くかのように朝から落ち着かなかった。いつも寝起きが悪い伯爵だが、その日は朝日が昇る前に起床し、身支度を始めた。シャツとキュロットに着替えると、鏡に向かって化粧をし、髪を整える。いつもより血色がよく見えるように白粉は薄くし、軽く頬紅を塗り、口紅を塗る。暗い印象を避けるため、長い銀髪も一つにまとめて後頭部で結った。豪奢な絹の上着ジュストコールを羽織るか、衣装棚の前で伯爵はしばらく考え込んだ後、富裕な農民も着ている地味な上着カフタンを選んだ。一通り身綺麗にした後、伯爵は使用人に助言を求める。



「なるべく好青年に見せたいのだが…。」



「前髪も後ろに流した方が、明るく見えますよ。」



「では、そうしてくれ。」



伯爵は自分の顔の造り自体に自信がないわけではない。しかし、不健康な顔を髪で隠したかったため、また社交の場では女性の目を避けるために長い髪を梳いただけで流していた。それに加え、寝不足や胃腸の不調による目の隈や痩せた顔が彼を幽霊じみた外見にしていた。いつしか伯爵は女性と接触しなくていい気楽さのために幽霊伯爵でいることに満足し始めていたのだが、領民にまで染み付いてしまったその印象は良き領主となるにふさわしくなく思え、払拭したかった。何よりジーナの家族に会いに行く今日は、誠実で素朴な青年を演じたかったので、普段とは違う髪型を抵抗なく受け入れた。



「これは村人も見惚れるでしょうね。」



幼い頃から伯爵に仕える、高齢のメイドが見違えた主人の姿を見て微笑む。人の良い彼女の笑顔に伯爵ははにかみながら、お世辞はよしてくれと言って、執事に評価を求める。



「いえ、本当に、好青年に見えますよ。」



執事は久方ぶりに見る、主人の健康的な姿に涙していた。もっとも、目の隈も頬骨も相変わらずで、化粧で隠しているだけなのだが。



「全く、二人とも歳をとって目が悪くなったんじゃないか。もっと公正な人は…、そうだ、」



自分を孫のように可愛がる老人たちの評価を信用できない伯爵は、新しく雇った兵士たちにも意見を求めに行った。



「…、き、君たちはどう思う?」



「え?伯爵様ですか!帝都から違う貴族様が来たのかと思いました…!」



わざわざ裏口から城を出て、表の城門まで来た伯爵を見て、兵士たちは冗談のようなことを本気で言った。伯爵は兵士も気づかない程に好青年に見えたかと、褒める彼らに赤面しながら満足していた。裏を返せば城の者たちも普段の伯爵の姿を不気味だと捉えていることになるのだが、誰もあえて口にはしなかった。







そんなことをするうちに昼になり、伯爵は供の執事と一人の兵士を連れ立ち、忘れず菓子を持って、城を出る。伯爵たちは村人の目を避けるように目立たない道を通り、記憶と手描きの地図を辿ってジーナの家にたどり着いた。すきま風が吹きそうな木造の家の周りでは鶏がうるさいが、あまり人の声は聞こえてこない。出かけているのかと思いつつも、伯爵はとりあえず、兵士と馬を待機させ、執事と二人で戸口に向かう。執事を連れたのは、見た目は好々爺な彼が居た方が警戒されないと思ったからだ。伯爵の細い足でも蹴破れそうな木の扉を叩き、どなたかいませんかと執事が尋ねる。伯爵が尋ねようとしたのを、領主がいきなり家の前に来たら誰だって逃げ出しますと執事が静止して代わったのだ。



「何かご用で…、!!あんたたちは…。」



扉を開いて出てきたのは、四十半ば程の男だった。元はそう悪くない顔立ちだったのだろうが、おそらく天然痘のためであろうあばた面を見て伯爵は一瞬目を逸らしそうになるが、失礼だと思って普段さまよいがちな目を彼の青い目に合わせる。足元を見ると、左足の膝から下がなく、粗末な義足をはめていた。



「ええっと…私は、ズヴェトフスキー伯爵…いや、ジーナの元雇い主の…イヴァンですが…貴方は、彼女のお父様でしょうか。」



貴族然とした態度を取るべきか、謙遜した態度を取るべきか迷って、元から伯爵として毅然と振る舞えるような気概のない伯爵は、一介の青年として尋ねることにした。それは彼の主観で、平民からすれば伯爵はどれ程情けなくとも、不気味でも、伯爵なのだが。



「そうだが…そうですけどよ…一体、伯爵様がなんの御用で?」



妻からジーナが不在だった理由は聞いていたものの、ホラ話だと思っていたジーナの父は実際に伯爵を目の当たりにして内心かなり驚いていた。まさか娘が本当に伯爵に仕えていたとは思わなかったのだ。



「その、彼女が元気に暮らしているか気になって…。一目お会いしたいのですが。」



伯爵はなるべく好印象を与えようと、老メイドの笑顔を真似して微笑む。一方の農夫は盛んに目玉を動かし、伯爵の顔などまともに見ていなかった。執事は主人とは違う意味で様子がおかしい農夫を警戒し始める。



「あいつは…、ジーナは、今はいねえよ。あ、いや、ちょっと、森の方に食べ物を取りに行かせてて…。」



「そうですか、それは…残念だ…しかし、文も送らず訪れた私が悪い。いきなり迷惑をおかけしました、」



言葉を詰まらせながらジーナの不在を農夫が告げると、張り切って準備していた伯爵はがっくりと肩を落とし、また暗い表情になってしまった。しかし、執事に肘でつかれた伯爵は手に持っていた籠の存在を思い出す。開いた扉の奥には、編み物をしているジーナの母親と、床の上で遊ぶ小さな女の子が見えた。伯爵に気づいた子供が可愛らしく微笑んだのを見て、伯爵は安心して、農夫に向き直る。



「あの…ジーナと皆様に食べていただきたく、焼き菓子をつくってきたので、よろしければ召し上がってください。」



「は?菓子?」



いきなり菓子を差し出してきた領主を、ジーナの父親は困惑した表情で見つめたが、断る勇気もなく、一言礼を述べ、頭を下げて籠を受け取った。



「では、日を改めてまた来ます。」



「…わざわざ、ご足労様で。」



ジーナの父親はほとんど伯爵の方を見ないまま、返事をしてすぐに扉を閉めてしまった。勢いよく閉まった扉の音は早く帰れと主張しており、老執事は農夫の伯爵に対する失礼に憤るよりも、その無謀さに感心してしまった。他方、伯爵はジーナの父の無礼にはさして関心がなく、それよりもジーナに会えなかったことで、折角の変身も甲斐がなく、鬱々とした空気を醸し出していた。









「残念だったな…。」



「あの父親、少し様子が変でしたね。」



馬上で意気消沈する伯爵に、執事は疑問を投げかける。無礼は伯爵への敵意や、無知のためだとして置いておいても、ジーナの父親は終始視線が彷徨っていたり、落ち着かない様子だった。



「そうかい?まあ、いきなり領主が来たら戸惑うだろう。」



「自覚されてたのですか。」



ならば事前に使いを送っていればいいものを、と執事はため息をつく。



「…そうだ、まだ日も出ているし、このまま森に行けばジーナに会えるのではないか?」



名案だと顔を上げていう伯爵に、執事は眉をしかめる。



「広大な森で、簡単には会えないでしょう。」



「多分、初めて会った湖の周辺にいると思うのだけれど…いいだろう、少し探してみようじゃないか。」



「イヴァン様がそうおっしゃるのでしたら…」



伯爵の全くの当てずっぽうに基づく提案に、執事はやれやれと肩をすくめて、馬を駆る主人についていった。







「いないなあ…」



伯爵一行は湖の前で、凪いだ水面を見つめていた。ジーナに会った時は湖は凍っていたが、今は湖の中を魚が泳いでいるのも見えるほど透明な湖面が陽の光に輝いている。



「やはり今日は諦めて帰りましょう。」



執事が伯爵に城に帰ることを勧めた時、木々の葉が揺れる音がして、人影が飛び出して来た。伯爵は彼女を見つけたと、喜んで馬から降りて駆け寄る。



「ジーナ!……じゃない?」



「うわ!こんなとこに貴族様がいる!」



ジーナより背丈の低いその人物は、金髪に碧い目をした少年だった。彼は威勢良く飛び出して来たかと思えば、伯爵を見て尻餅をついた。伯爵は彼を起こすため手を差し伸べ、思わずその顔をまじまじと見る。



「ん…ジーナに似ている…?」



少年はジーナと髪の色も目の色も違ったが、すっと通った鼻筋や、涼やかな目元、全体的に整った顔立ちがジーナによく似ていた。しかしジーナより豊かな表情をしている。



「まさか、君は…」



「ジーナを知っているの?」

伯爵が疑問を口にするより先に、少年が身を乗り出して伯爵に尋ねる。てこの原理で伯爵が今度は尻餅をついた。



「あっ、ごめんなさい!」



「いや、いいよ…、いたた、……私は、ジーナの元雇い主の伯爵だよ。」



伯爵は、ジャケットについた草を払いながら答える。すると、少年が鬼気迫った顔で彼に飛びついたので、また伯爵は倒れてしまった。



「お願いします!!ジーナを、姉さんを助けて!!!!」