伯爵の訪問
ようやく雪が降り止み、長い冬が終わった。伯爵の城の広い庭にも花が咲きはじめ、春が芽吹く頃。
伯爵はジーナを共だって、村の視察に行くことにした。丘の上にある伯爵の城から見渡せる村は、小さな森を抜けた先にある。伯爵はこれまでも季節の変わり目に村を訪れていたが、人見知りな伯爵は領民と会うのも気が引け、馬車の中から彼らの働きぶりを見るだけで満足していた。しかし、ジーナを通して村民の生活状況を聞いていた伯爵は、数字の上では然程悪くないと思っていた自分の領地の実情を知るために、伯爵は村を日常的に訪れることにした。といっても、伯爵にも仕事があり、またそう頻繁に伯爵が訪れても村人も伯爵も気が休まらないので一月に一度くらいに訪れる回数を増やしただけだった。
男爵の事件の後処理が終わってから訪問を始め、今回は二度目の訪問だった。
「前回は村人への挨拶と、粉挽き小屋等伯爵様の城内にある施設の使用についての調査でしたが、今回は税の負担の調査ですね。」
「ああ、西に比べると我が帝国の農民は負担が重いと聞くし、私の民たちも過度な税で苦しんでいるかもしれないからね…それに、前回も全員の村人に会えたわけではないから。」
「森の方に住む村人もいますし、全員の顔を見るのは難しいでしょうね。恐らく伯爵様が把握されている数よりも多い人数が住んでいることも判明するでしょう。」
「えっ、そうなのかい?」
「重税を逃れるために森に暮らす人々もいますから。伯爵様の領地は広大な森林も含んでいますし…。」
「それは…困るけれど…。」
森林に住む農民たちはコサックと結託して反乱を起こすこともあるので帝国貴族たる伯爵は取り締まらなければならないのだが、静かに森で暮らす人々を無理やり追い出したり、違う場所に住まわせることは気弱で優しい伯爵には気が引けた。そして何より、爵位ばかりの伯爵には、よしんば彼らが武装していたとして、対抗しうるような兵力もない。
「とりあえず村のことを把握してからにしよう…。ここが住みやすくなれば、森の人も定住してくれるかもしれないし。」
他の領地の小作人が伯爵の領地に住むのは女帝が許すことなのだろうか?と、ジーナは疑問に思ったが、貴族のことはまだよくわからないので黙って伯爵の発言を書き取った。
「まだ執事から教わり始めて数ヶ月なのに、君は覚えがいいね。」
伯爵はスラスラとペンを走らせるジーナを見て感心している。執事が教育し続けているジーナは、一通り文字を覚え、税の計算の書留もできるようになった。伯爵もたまに読み書きの練習に付き合っている。ジーナに字が綺麗だと褒められた伯爵は、照れてインクをこぼしたりして彼女の仕事を増やしていたが。
ジーナはあいも変わらず真面目に働いている。伯爵は彼女の体調を心配してよく休みを取らないのかと聞くが、今のところ一度も取っていない。伯爵より余程丈夫なジーナは風邪も引いていないが、まだ15の少女だ。伯爵も高熱にうなされ生死の境を彷徨ったことが一度二度あるが、流行病で少年少女が亡くなるのは何度も目にした。気が気でない伯爵は、いかにしてジーナを休ませるのか考えていた。そしてもう一つ伯爵が気がかりなのは、村に行くたびに彼女が無表情ながら浮かない顔をしている、と感じることだった。
伯爵とジーナ、そしてお供の兵士数人は馬に乗って、村を訪れた。伯爵から事前に知らせを受け取っていた村人たちは広場に集まっており、村長をはじめ村の有力者が伯爵を迎えた。伯爵は馬上から降りて、いつもベッドで芋虫のように震えている姿からは想像できない優雅な物腰で挨拶をする。
長く波打つ銀髪、長い睫毛と深い彫りが陰を落とす青味がかった灰色の目、高い鷲鼻、こけた頰、血色の悪い唇。噂に違わず不気味な伯爵の容姿に、冬の終わりに訪れた時の領民は震え上がっていた。城に引きこもりがちな領主が突然来たとなれば、輪をかけて恐ろしいだろう。
しかし、2回目となれば彼らも慣れ始めたのか、仄かな春の陽光が味方したのか、伯爵に対する村人の恐怖は軽減していた。よく見ると美しいと隣の者に囁き出す若い娘たちもいた。もともと均整はとれた顔立ちで、不眠症の改善によって隈も薄まり、頰も若干肥えていた伯爵は、日の光の下だと美男子と言えなくもない姿になっていた。しかし伯爵が男色家という噂は広がっていたので、村人が彼に色目を使うことはなく、むしろ少年たちをさりげなく背の後ろに隠していた。そもそも貴賎の差を知る村人は、伯爵の花嫁になるような高望みはしていなかった。女好きの先先代の領主などは、村人に手をつけては捨てていたという話もあり、彼に気に入られたからといって幸福な生活が手に入るとは限らないことを、村人たちは理解していたのだ。伯爵の側にたつ少年、ジーナのことも、村人たちは貴族階級の人間だと思い込んでいた。一方、ジーナは一部の村人から憧れを向けられる伯爵を見ながら、鍬も持てなさそうな伯爵は痩せすぎているとぼんやり考えていた。
伯爵とジーナが広場の村人の話を聴き終わり、その場にいない農民たちの家を回るために馬に乗ろうとした時、
「ジーナ!!あんた、どこ行ってたのさ!!」
中年の、薄汚れ、擦り切れた服を着た農婦がジーナの名を叫び、彼女に抱きついた。