麦畑日の出

湖の底

家に戻ってから、ジーナはまた以前のように家と外の仕事に追われる日々を送っていた。伯爵の城でも積極的に身体を動かす仕事を手伝っていたジーナだが、やはり字や算術の勉強のために机に向かっている仕事も多く、また農作業に比べれば負担が軽い力仕事だったので、身体が鈍っていないか心配だった。それは杞憂で、ジーナの筋肉も体力も衰えておらず、今日もジーナは重い水を運んだり、鍬を振るっている。ジーナは伯爵の農地にも賦役で出かけているのだが、伯爵が賦役の日数を減らしたのと、彼自身は城の外に姿を現すことはほぼないため、この二ヶ月伯爵の姿をジーナは遠目にも見ていない。毎日悲しんだり喜んだり忙しい伯爵を見ていたのに、今では元どおり遠い雲の上の存在になった。時折ジーナの夢に出てきたり、木の陰にいるように見えたりすることもあるので、ジーナにとっては本当に幽霊のような存在になっている。



小麦の種まきの最中、一息ついたジーナは、城壁に囲まれた不気味な城を眺める。伯爵の部屋のカーテンは閉まっている。ジーナはまた寝込んで塞ぎ込む伯爵を想像し、少しだけ罪悪感を抱いた。そして、土で汚れた自分の手を見る。初めてジーナが伯爵と会った時は釣りをしていたので、比較的綺麗な格好をしていたが、今畑仕事をしている自分を見ても伯爵は城に連れていかないだろう、と彼女は思った。



(伯爵はもう新しい小姓を見つけただろうか。)



再雇用の当てもないのだから考えても無駄か、とジーナは立ち上がって、また種を巻き始める。伯爵の小姓で居続けるのも、特に善行を積んでいない農民が不思議な導きで王になるお伽話と大差ない。家族を支え、毎日働いていた兄は死んだ。







ジーナは家の食料の足しにするため、伯爵が溺れた湖に、小さい弟と魚を釣りに来ていた。7歳の弟もジーナにならって釣りをしている。今日は魚がよく釣れる、親に黙って余りを村人に売り歩いた方がいい食材が買えるかもしれない、とジーナが算段を巡らせていた時、弟が竿を放って湖の中に入ろうとしているのに気がつき、急いで襟を掴んで引き戻す。



「何してんだ、お前、泳ぐのうまくないだろう。」



怒りはせず、しかし静かな声でいう姉に、弟はひるみもせずキョトンとした顔で答える。



「綺麗な鱗の魚がいたから。太陽の光に反射して、キラキラ光ってたんだ。」



「言えばとってやるから、黙って湖に入るな。」



無邪気な弟の答えに、無表情でため息をついたジーナが注意すると、弟は大きな青い瞳を瞬かせて聞く。



「どうして?」



溺れかねないからだ、と冬の日に凍った湖で溺れていた間抜けな伯爵の姿を思い出しながらジーナは言おうとしたが、やんちゃな弟の性格を考え、別の言い方をした。



「ルサールカやヴォジャノーイに連れ去られるぞ。」



「何だよ、それ?」



「人間を水の底に引きずり込む怪物さ。ルサールカは水辺で死んだ若い娘で、ヴォジャノーイは魚だか老人だかの格好をしてるらしい。昔、イーゴリが言ってた。」



「イーゴリって、」



「お前が生まれる前に死んだお前の兄さんだよ。イーゴリは、ルサールカに連れてかれて死んだんだ。」



竿を引き上げて魚を釣りながら、ジーナは脅すわけでもなく、淡々と事実を述べるように言った。急に血の気を引かせて、震えた弟の方は見ず、連れた魚をジーナは検分していた。弟が捕まえたかった魚だろうか、確かに銀の鱗が綺麗な個体だが、よく釣れる魚だ。



「俺、もう、湖はいらない。」

急に水を恐れ出した弟に、ジーナは呆れた目を向ける。



「別に、身体が大きくなって、ちゃんと練習して泳ぎがうまくなったら、一人で湖に入ってもいい。」



「いやだ。だって、イーゴリは、大きかったのに、連れてかれちゃったんだろ。」



「村の中じゃかなり大きい方だったな。」



ジーナは、霞みがかった記憶の中の兄の姿を思い出す。兄は生きていれば伯爵と同じくらいの歳で背丈も近いが、ジーナの記憶の中の逞しい兄は、伯爵二人分程の幅があった。



「でも、湖の底の方が、地上よりいい暮らしができるかもしれない。」



「イーゴリは死んだんじゃないの?死んだのに、いい暮らしができるの?」



「死んだら、この世界とは違う世界で生きるんだ。」



ジーナは半信半疑なことを弟にはさも当然かのように言い聞かせた。弟が水を過度に恐れると彼に釣りを手伝わせることも難しくなるからだ。



「ふぅん。…湖の底なら、俺もツァーリになれるの?」



弟は、納得していない表情を浮かべながらも、あの世について知るために、姉に尋ねた。



「それは難しいだろうな。」



ジーナは、ツァーリが何かも、自分の身分も分かっていない強欲な弟に、また呆れた目を向けた。



「なら貴族は?」



「ちょっとした貴族ならなれるかもな。」



神の世では身分もなく平等だと聞いた気もするが、ヴォジャノーイに連れて行かれた者はその奴隷になると聞いたこともあるジーナは、弟と同様、地上と大差ない身分制に支配された彼岸を思い浮かべる。死んだからと言って、身分が逆転することなどあるのだろうか、神の前での平等とは、ジーナにはあまり腑に落ちない話だった。弟には、希望を抱かせ恐怖を軽減させるために適当なことを言う。



「じゃあいいよ、ジーナやゾーヤと会えないかもしれないし。」



幼い妹と姉を恋しがる弟を、不思議な生物を見つけた時のようにジーナは物珍しげに眺める。ジーナの弟は、父にも母にも、兄にもジーナにも似ていない性格をしていた。拾われたわけでもなく、ジーナの母の股から確かに生まれたのだが。ジーナと一緒に賦役に行く時も、一人で周りの村人に話しかけに行き、村はずれに住む一家の中で一番顔が広い。商人の家に生まれていれば、もしかしたら成功したかもしれないが、彼もジーナと同じ農奴だ。地上では、金貨を手にすることはないだろう。それなのに姉の庇護の下世界を知らない弟は、少しでも金を持てるかもしれない水中より天より、地べたを這って地上で生きたいと言う。



「そうだな。水の中は地上より冷たいし、暮らしにくそうだ。」



しかし、ジーナは弟に同意する。何があるか分からない死後の世界より、ジーナは暖炉で暖まれるこの世の生活の方がいいと思った。



「俺、冷たいのは嫌いじゃない!」



弟は姉の言葉を文字通りに受け取って的外れなことを返し、暑くなったといって怪物のことも忘れ、また水に入ろうとする。危なっかしい弟のシャツをジーナはひっ掴み、そこで大人しくしてろと後ろに投げた。