伯爵の菓子
「しかし…領民の生活を改善しようとなされるのは、慈悲深きイヴァン様だからでしょう。」
蕈畑に出来そうな陰気を放つ伯爵を前に、執事は頭を捻って彼の美点をあげた。
「まだ、何もできていないが…。十年前から農奴たちのひどい扱いはやめようとしてきたけど、結局城に籠って現状が把握できているわけがなかったことに、最近気付かされたぐらいだ。ジーナだって…」
伯爵を励まそうとした執事だが、またもや選択を誤ってしまった。伯爵の憂鬱は、寂しさだけでなく、ジーナの生活状況への懸念からだ。伯爵はジーナに退職金として金を渡そうとしたが、受け取ってもらえなかった。せめて城で彼女が来ていた服などを馬車に乗せ、ジーナを送る際に見た彼女の家は木造で、粗末な家だった。彼女は今、朝夜の冷え込みに凍えていないだろうか。冬は大丈夫なのだろうか。ジーナだけでなく、村人全体の問題なのだが、伯爵の頭の中に真っ先に思い浮かぶのはジーナだ。
そもそも、家族の下に帰したことが本当に正しかったのだろうか?いや、自分は人さらいではないから実の家族からジーナを奪うわけにはいかない、それに、血の繋がった家族がジーナをひどく扱うこともなかろう。祖父も厳しい人だったが、あれは私への愛だったと信じている……
伯爵は自己正当化とジーナの家族の懸念の間で揺れ、賦役と貢納の調整のために数式を書いていたペン先も止まっている。いい加減面倒になった執事は、遠慮を捨て進言した。
「会いに行かれたらいいではないですか。」
執事は伯爵からジーナのことを聞いた時、自分が人を見る目が鈍ったのかと肩を落とした。あの娘が嘘をついて伯爵から搾取するような人間には、執事には見えなかった。しかし領民の信用を得ようとしている伯爵が、その目の前で領民の少女を家族から引き離すわけにはいかない。しかも少女を男装させ側に置いていたと言うだけで、村人の反感を買うには十分だ。とはいえ、執事もジーナという人材を諦めきれなかった。それに、自ら姿をくらませ男爵の愛人となったエリクと違い、ジーナは城下にある村の家に戻っただけだ。伯爵の訪問くらい許されるし、むしろ村人にとっては歓迎すべきことだろう、と、狭い自領の住人との関係が良好な執事は思っていた。
「でも、私が顔を見せるのを、ジーナの家族は喜ばないかもしれないし、変な噂が立って村の中でジーナの立場が悪くなるかもしれないだろう。」
「噂については手遅れですから気にしても仕方ないでしょう。むしろ、伯爵の庇護が今もあると分かれば村人は下手にジーナを扱いませんよ。元々誰も気づかなかったぐらいですから、村人との交流もあまりないのかもしれませんが…。」
「しかし……。」
なおもジーナに会いに行くことを渋る伯爵は、ついに顔を机の上に突っ伏した。執事は呆れた目で主人を眺めながら指摘する。
「ジーナに拒まれるのが怖いのですね。」
「………ああ。」
「ジーナはイヴァン様に仕えるのが嫌で帰ったわけではないのですから、大丈夫でしょう。イヴァン様の顔を見たら喜びますよ。」
「そうだろうか……。」
「金品だと拒まれるかもしれませんが、城でつくった焼き菓子ならジーナも喜んで受け取るのでは?弟と妹もいるようですし。メイドたちもジーナを恋しがってますから作ってくれるでしょう。」
そして執事は、二度目の失態を犯した。
「…それは、名案だ!!私もつくろう!!!」
「いえ、イヴァン様は…」
「菓子は以前からつくって見たかったし、他人につくらせたものではなく、私の手でつくった菓子をジーナに食べてもらいたい!!!」
自分の思いつきの提案に、急に顔を上げ、必要以上にやる気になった伯爵の言葉に執事は足元をふらつかせた。
主人は本を読みすぎたようだ。
ジーナ一家への後ろめたさから伯爵は自分で作ることにこだわっているが、専門家につくらせた方がいいに決まっているし、伯爵であるイヴァンが菓子づくりに精を出すことが問題な上に、たまに何もない場所で躓くイヴァンが菓子づくりというのは不安だ。そう執事は思ったが、顔を輝かせている伯爵に何も言えなかった。
結局、伯爵は教師と化した老メイドに菓子づくりを教わり、失敗を重ねながらも、果物とヴァレニエ、ウォッカを麦の生地でくるんで揚げた焼き菓子をつくることに成功した。少し焦げたり、生焼けになった、食べられなくはない失敗作は使用人や兵士たちが食べたが、伯爵と食卓を囲んだことで、彼らの先行きへの不安も軽減されたようだ。城下の村出身の兵士たちは、自分たちの領主がつくった菓子を食べるという事態を面白がっていた。先先代の伯爵が見たら卒倒するかもしれない、と執事は伯爵のつくった甘い焼き菓子を食べ、紅茶を飲みながら思った。