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氷点下、氷で覆われた木々は、化け物の影を作り出す。冷たく深い森の中を、一人の男が馬に乗って通り過ぎる。絹の布地に豪華な刺繍が施されたジャケット、上質な毛皮のコートと立派な身なりではあるが、煌びやかな衣装と対照的に男の顔は陰気な表情を浮かべていた。顔立ちは整ってはいるものの、大きな碧い眼球はぎょろぎょろと辺りを見回し、肌色は寒さでますます青白さを増し、唇は寒さで紫がかっていた。鷲鼻と痩せこけた頬は顔の陰影を強め、不気味な雰囲気を醸し出している。幽霊伯爵と領民から呼ばれるその男は、気ふさぎで城で臥せってばかりいることで有名だった。生まれつき身体が病弱だった上、その生い立ちから心も繊細に育った。そのような性格で一年中寒い雪国に住んでいては、気が滅入るばかりである。けれども伯爵は中世に先祖が建てたゴシック様式の城の他、住むところを持たなかった。また伯爵の性格では、南国の熱い日差しに照らされても、その心の影は増すばかりであっただろう。

 

 先日も彼を気落ちさせることが起きた。愛人の小姓が、自分を捨てて友人の屋敷に行ってしまったのである。この裏切りは伯爵をかなり落ち込ませ、一か月以上彼は部屋でむせび泣いていた。毎日枕を濡らしていたが、流石に毎日甲斐甲斐しく自分の世話をし、領地の経営も手伝ってくれる老いた執事への罪悪感が悲しみに勝り、一週間前から執務を再開した。再開したはいいが、ペンを走らせていても小姓と友人が自分を嘲笑いながら睦み合う様子が脳内に描かれてしまい、全く集中できない。これでは駄目だと、突発的に馬を走らせて城壁の外の森に来たものの、心が晴れるわけでもなく、むしろ空気の冷たさに心の蔵も冷える気すらした。

 

 城から20分ほど馬を歩かせたところには、川がある。遥か北に行けば海につながるその川は、音も立てずに凍っている。

 

(この寒村から出られず、いや、陰鬱な古城に引き篭もっている私の心のようだ。)

 

伯爵の薄碧の瞳にまた陰が差す。暗い考えを振り払おうと遠くを見ると、川岸で氷に穴を開けて釣りをしている人影が見えた。馬を進ませて近づいてみると、その人影は少年であることがわかった。キャラメル色の髪は少し跳ね返っており、薄汚い身なりは農民のものに見える。しかし、彼は陶器の人形のように美しい顔立ちをしていた。普段の伯爵からは考えられない行動だが、人恋しさと、愛人の面影を求める心から、伯爵は馬を進めて少年の側に行った。

 

「やあ、何をしているんだい。」

 

伯爵はそういった遊びが得意ではない。舞踏会などでも、いつも端でじっと全てが終わるのを待っている。だから、気の利いた誘い文句を知らなかった。

 

「釣りですが。」

 

 少年の声はまだ声変わりしていない高い声で、それでいて落ち着いて凛とした声だ。綺麗な碧い目は伯爵のものより輝いている。少年の天使のような美しさに、伯爵は自分の下を去った愛人の小姓を思い出す。だが、小姓は見た目の愛らしさに加え、愛嬌があった、彼を悪く言う人は誰にでも媚びる魔性と評すが。一方、この少年は伯爵に興味も示さず、無愛想で冷たい。冬の精霊に話しかけたのかもしれない、と伯爵が一瞬思う程。そっけない返事を貰った時点で彼の繊細な心は折れかけたが、同時にその冷たさに惹かれた。

 

「そう、そうだよね…その、しばらく、眺めてもいいかい?釣りをするところを。」

 

 少年は怪訝な表情を隠さず、伯爵を見る。

 

「いや、あの、私、釣りってしたことがなくてね…特にこんな雪の日は。」

 

「…ご勝手にどうぞ。」

 

 貴族様の道楽は不可解だな、という顔だ。伯爵は馬から降りて、彼の側に座る。伯爵もてきとうに思いついた言い訳だったが、実際、体が弱くて冬は特に城の外に出ない伯爵は、釣りに馴染みがない。今は昔ほどではないが、少年の頃は雪の降る日に外を歩くだけで高熱を出した。

 

今も雪は降り続いているだろうが、少年は寒くないのだろうか。彼はシャツの上に何も来ていない。心配に思った伯爵が毛皮のコートを脱いで彼の肩にかけると、少年はますます怪訝な顔をしつつ、ありがとうございます、と簡潔に礼を述べた。

 

伯爵はしばらく凍てついた湖面を眺める。

 

ぴちゃっ ぴちゃっ

 

まだびちびちと暴れる小魚を少年が釣り上げた。見ると、バケツの中には結構な数の魚が溜まっている。銀色の鱗が鈍く光る、死んだ魚たちの虚ろな目。絶命した後も神経の反応でじたばたと暴れている魚を見ていると、伯爵は人生というものを想ってまた物悲しい気持ちになった。少年は構いもせず、淡々と釣った魚をバケツに放り込む。彼一人が食べるにしては多すぎる量だ。家族の分だろうか。着ている服からも、この凍てつく寒さの日に1人湖で釣りをしていることからも、少年の身分や暮らしぶりは想像できる。暖かい城の中で暮らし、食料を自分で調達する必要もない伯爵は、少年に申し訳ない気分になった。貴族の嗜みである狩りも伯爵は好きではなかった。動物が血を流すところを見るのも心苦しくなるからである。しかし、少年の目は爛々と輝いているわけではなくとも、魚のように死んではいない。伯爵の目よりもずっと強い意志を秘めた目だ。何か逞しさ、力強さのようなものを彼の翠の目には感じて、その強さに伯爵は勝手に惹かれた。同時に、領主としての責務を自分が果たしていないがために彼はこんな生活を強いられているのではないかと、罪悪感でまた弱い心臓が締め付けられた。

 

 

 

ずっと少年が釣りをするのを眺めていると、伯爵は自分も釣ってみたくなってきた。

 

「余っている竿はないかい?私も釣りをして見たい…」

 

「もう十分今日は釣れましたから、これをどうぞ」

 

「ありがとう」

 

「持っているだけで、しばらくすれば引っかかりますよ」

 

少年が言ったしばらくと言うのは30分以上のことで、少年が釣っていた時よりもかかりが悪い気がするが、伯爵は寒さに震えながらも気長に待った。30分以上たったころ、竿が震え、引き上げようとする。しかし、

 

「お、重い、」

 

「大きな魚かもしれません、」

 

「なんだろう、!これは、」

 

釣れたのは魚ではなく、鼠のような動物だった。

 

「これは面白い」

 

少年は真顔で呟いた。伯爵は興味津々でその生き物を見つめる。出不精な伯爵が実物を見たことがない動物はたくさんいる。

 

「もっと近くで見たいな」

 

そう言った伯爵は湖面に足を下ろし、氷上を歩く。氷の湖の上を歩いた経験もほとんどない。少年は無言で伯爵を見ていたが、伯爵の足元の氷にヒビが入ったのを見て、眉を寄せた。

 

「それ以上は危ないですよーー」

 

「えっ?」

 

少年の警告を耳にした伯爵が振り返った瞬間、氷が割れた。伯爵の片足が湖に沈み込み、勢いで周囲の氷も割れ、冷たい冬の水に伯爵の体は飲まれていく。

 

ついてない死に方だ、

 

と伯爵が早々に諦めた時、腕を掴まれた。コートを脱ぎ、シャツだけの少年が湖に飛び込み、革袋を浮き輪にして沈む伯爵を湖面に引き戻した。そのまま岸の石をつかんで、伯爵を手繰り寄せ、少年は自分もずぶ濡れになりながら岸に上がった。

 

伯爵は気を失ってはおらず、ぶるぶると震えて咳き込んだ。少年に手伝われながら水で重くなったジュストコールを脱ぎ、毛皮のコートを着る。少年が焚き火を焚いていて助かった。二人でしばらく暖をとる。伯爵は少年の行動にいたく感動した。目の前で貴人を見殺しにすれば自分が咎を受けると思ったからかもしれないが、静かな翠の瞳からは何もわからない。

 

「す、すまない、ありがとう…。」

 

「いえ、早くお戻りになってもっと暖まったほうがいいですよ。」

 

少年のシャツも濡れているが、彼はすぐ乾くと言って脱がない。もしかして、自分が男色家であることを読み取って警戒しているのだろうか、と伯爵は勘ぐってしまう。伯爵はそもそも男であれ女であれ誰かの裸に興奮することはないのだが、いきなりそんなことを言っては逃げられてしまう。少年の身体が心配だが、どうすればいいだろう。

 

「そうだな……君も私のせいで濡れてしまって寒いだろう、城に来ないかい?体を壊してしまうよ」

 

「……、私のような農民が、良いんですか?」

 

「助けてもらったんだ、当然だろう。それに、弱った者に門を開くのは領主の責務だよ、その、私はいい領主とは思われていないだろうけど…。」

 

「そう言って頂けるなら、わかりました。」

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