*未成年に対する性的虐待を仄めかす描写があります

 

 

 

 

伯爵が生まれた時、伯爵の母は産褥熱で亡くなった。だから、伯爵は実の母の顔も見たことがない。城に飾られた肖像画の中の母は、伯爵に似た灰色の目と銀の髪、薄白い肌を持ち、儚げな風貌をしていた。伯爵の父———先代の伯爵は、妻の忘れ形見である伯爵を、城に半ば閉じ込めながらも、優しく育てようとした。もっとも当時宮廷に仕えていた父親は留守が多く、伯爵を育てたのは乳母や執事たちだった。彼らは我が子のような愛情を持って伯爵に接し、おかげで伯爵は愛くるしく、気弱だが心優しい少年に育った。そして、伯爵が八つになった年、父親が再婚した。薄暗い城にやってきた、煌びやかで華やかなドレスと香水を身にまとった継母と義理の姉たちを、伯爵は当初恐れたが、やがて彼らを新しい家族として受け入れた。彼女たちは伯爵を可愛がり、他の貴族の城での茶会や舞踏会にも連れて行った。伯爵がそうして、彼女たちを姉や母だと認識するようになった。しかし段々、彼女たちの愛情の歪さがあらわれてくる。義理の母や姉、その友人たちは伯爵を女の子のようにドレスや化粧で着飾らせるのを好んだ。鏡に映った幼い伯爵は、ほとんど少女に見えた。留守がちな父親は何も把握していなかった。そしてそのまま、ある日彼の父は、落馬事故で亡くなった。父の死はとても悲しかったが、この時の伯爵は、ともに喪服に身を包み涙を流す姉と母がいれば支え合っていけると、信じていた。

 

 

 

伯爵が十を超えた頃から、田舎に退屈した彼女たちの遊びは過激になった。女装させた伯爵のドレスのスカートをめくって笑ったり、成長しつつある身体を晒させたりした。母が女主人となり、父親が帰らぬ人となった今、伯爵には逃げ場がなかった。そして彼女たちは夜も伯爵の寝室に入り浸り、血が繋がらないながら、家族としては、そして幼子にするものとしては、許されない行為を繰り返した。心で泣いても、体は喜んでいると嘲笑われるうち、伯爵は自分は彼女たちの人形なのだと思うようになった。伯爵の顔からは生気が失われ、食事も進まず、城の庭で遊ぶことも少なくなった。そんな日々が一年以上続き、伯爵が人生を諦めかけたころ、辺境の城に訪問者が来た。伯爵の父が少し金を借りていた友人が、その要求に来たのだ。その友人は宮廷の役人だったが、娘をより高位の貴族に嫁がせる持参金で金が入用だった。つまり彼は、急いでいたのだ。そして城に入った後、使用人たちの制止も聞かずに奥方の部屋の戸を開けた。伯爵の城は数百年前からあり、外見は立派だが中身は古びていた。そして、宝石やドレス、絵画にお金を費やしていた奥方だが、城の整備にはあまり気をかけていなかった。

壊れていた鍵のおかげで、そして偶然か必然か司法関係の役職にいた債権者のおかげで、伯爵の悪夢は終わった。早く借金を返済してもらいたい司法官は、正しい手順を踏んだかは不明だが、迅速に伯爵の継母たちを裁き、伯爵が父の財産を名実ともに自由にできるようにした。司法官がとって行った金額が本当に借金の額と同じだったのか伯爵には分からなかったが、彼は継母たちの人形遊びから解放されただけで、十分だった。

 

 

 

伯爵は、女性とは話しをすることもままならなかったが、愛しい少年相手であっても素肌に触れることはできなかった。忌まわしい幼き日の記憶が、どうしても彼にそれをためらわせた。もし少年、エリクがともに傷を癒す歳月を過ごせば伯爵もいずれは彼に与えることができたかもしれないが、エリクが欲しかったのは、穏やかな愛ではなく燃えるような恋だった。伯爵が、与えられないことが原因で去られたのは、エリクだけではない。それに、伯爵がまだエリクよりもジーナよりも幼かった頃には、淡い初恋を抱いていた女の子もいた。けれど、麗しい女性になった彼女に手を握られただけで、伯爵は眩暈を覚え、吐き気を催した。憧れていた少女の姿を、記憶の中の忌まわしい義母と義姉の姿に重ねてしまった伯爵は、それからずっと、女性を避け続けた。成人した男性から怪しい視線を送られることもあったが、意にそぐわぬことをされるのではないかと危ぶむ伯爵は彼らからも距離をとり続けた。代わりに、華のように美しい少年たちを傍にはべらせ、慈しんだ。綺麗な服を着せ、演奏会へ行き、共に木々の中を歩いた。それは伯爵にとって暖かく、愛おしい時間だった。もしかすると、伯爵自身がしたかった少年時代の経験を彼らに与えようとしたのかもしれない。ただ、美しいものを見て全ての悩みを忘れたかっただけなのかもしれない。伯爵も、自分の真意はよくわかっていなかった。彼にとって確かなことは、彼は少年たちを愛していたことだ。しかし、彼らが求めていたのは、伯爵と同じ愛ではなかった。皆、失望して伯爵の元を去った。

 

 

 

「うう…」

 

伯爵は唸り声を上げて寝返りを打つ。伯爵は夢の中で、姉や母やエリクたちの嘲笑から逃げようと走り続けていた。背中に浴びせられる笑い声はやがて遠のき、伯爵は雪原の上で息を整える。顔を上げると、知り合ってそう長くない少年の格好をした少女がたたずんでいた。

 

ジーナは伯爵にとって、不思議な存在だった。中性的な顔立ちのせいか、性を感じさせない淡白さのせいか、彼女が少年の格好をしている限り、伯爵はジーナを恐れ、不快に思うことはなかった。ジーナは伯爵の中で、愛人よりも友人に近い位置にいた。今までの小姓と違い、ジーナは伯爵に何らの熱が籠った瞳も向けない。それでも、だからこそ、彼女と過ごす時間は、これまで誰と過ごしたよりも優しい時間だと感じていた。もっとも、その大半は寝込む伯爵の世話をジーナがしているだけであったが。

 

夢の中で少女の姿を見て伯爵が安堵のため息をついたのも束の間、瞬きをする間に伯爵の視界は真っ赤に染まった。血まみれのジーナが、伯爵にすがりついていた。彼女の虚ろな鳶色の瞳と伯爵の目が合い、その頬に手を当てた伯爵は、肌の冷たさから悟った…

 

「あああああっ!!!」

 

伯爵は思わず飛び起きた。彼の心臓はいつになく早く脈打ち、身体中から汗が吹き出ている。

 

「はあ、はあ…」

 

伯爵は呼吸を落ち着かせ、ぎょろぎょろと瞳を回し、時計を見る。まだ深夜だった。窓の外は真っ暗で、星も見えない。眠るのが怖くなった伯爵は身を起こすと、寝台近くの机の上に、蜂蜜入りのウォッカが入ったグラスが置かれているのに気づいた。ジーナが用意したものだ。ジーナは孤児だと言っていたが、本当に気の利く子だ、と伯爵は感心し、また同時に、自分より一回り以上年下であろう彼女に気を遣わせていることに後ろめたさを感じた。そして、自分を見捨てずに忠告してくれた彼女への仕打ちを思い出し、後悔した。それでも、伯爵は男爵への疑念を頭の中から消そうと、ウォッカを飲んで再び眠りに落ちた。

 

 

 

 

まだまだ寒い夜から少女を守る、暖炉の炎が爆ぜる。燃える薪を見つめながら、ジーナは男爵の白黒、動機を考えていた。城や舞踏会での会話を経て、男爵は怪しいと直感で感じていたジーナだが、同時に、爵位を持ち、伯爵の百倍貴族生活を楽しみ、社交界でも浮名を流す男が危険を冒して身内の連続殺人を行うというのは、平民のジーナには考えにくいことだった。恵まれた地位と財産と美貌を持つ男爵が殺人鬼であるなど、伯爵が信じたい通り、ジーナの杞憂だろうか。しかし、特段大きな理由がなくても、些細な事から仲睦まじい家族や友人が争い合う光景もジーナは見てきた。

 

ならば、自分がなすべきことは何か。伯爵の心を、己の生活を守るのに、このまま悪魔が住む館から離れ、門を開けなければ堅牢な城に閉じ籠っているのが最善なのか。

 

ジーナは考えを廻らせながら伯爵から貰った懐中時計をいじる。西の共和国の職人がつくったというそれは、高価であることが一目でわかった。元々ジーナは伯爵の領民であり、彼への奉仕の代わりに庇護を約束された存在だった。それはこの国ではとても重い制度だったが、城からほぼ出ることもない伯爵は遠い存在で、領主の存在の大きさを、幼い頃のジーナは知らなかった。今、彼女はただの一領民ではなく、伯爵に直接仕えている。手を真っ赤に、あかぎれだらけにして冬の森を歩いて食糧を集めることもせず、凍えることもなくこの暖かい部屋で、柔らかい寝台の上で眠ることができるのも伯爵に与えられた恩恵だ、とジーナは身をもって感じていた。

 

恩恵は、奉仕と引き換えなのだ。いつも涼しげな少女の鳶色の目に、炎が映っていた。