負傷した男爵は執事が連れてきた村の男たちによって取り押さえられた。男爵は伯爵の城の地下牢に閉じ込め、明朝、帝都の役人の到着を待って、共に帝都まで連れていくことになった。貴族の男爵を正式な手続きなしに地下牢に置くことに伯爵は難色を示したが、男爵を伯爵から隔離し、厳重に見張りたい執事の強い主張に、伯爵は折れた。男爵は朗々とした様子で、臆病な君があんな行動に出るなんて、感心したよと、伯爵に笑いかけ、馬車の中に連れて行かれた。ジーナを嬉々として甚振ろうとしていた時も、社交界で明るく振る舞う時も変わらぬ態度に、ジーナは男爵の恐ろしさを感じた。伯爵は、複雑な表情を浮かべ、雇った男たちに男爵を逃さないように見張れとだけ命令し、男爵に言いたいことは山ほどあったが、飲み込んで踵を返した。
「アレクサンドル様!!!」
目を覚まし、ことを把握したエリクが、男爵の名を呼んで、伯爵には目も向けず馬車に駆け寄っていく。男たちの間をすり抜け、エリクは馬車に擦り寄ると、男爵が窓から頭を出す。
「エリク、すまないね。君とはもう会えなさそうだ。」
「そんな…嫌です!」
エリクは涙を流しながら男爵の首に手を回し、彼に口付け、男爵もそれに答える。兵士たちが彼らを引き離そうとするが、伯爵が止める。伯爵は二人の抱擁を寂しげな目で見つめ、ジーナは無関心な様子で眺めていた。
「さようなら、エリク、愛しているよ。」
男爵はそう言うと、エリクを遠ざけ、窓のカーテンを閉めた。馬車に乗り込んだ執事が出発を命じ、御者が馬をむち打ち、馬車は伯爵の城に向かって発った。
馬車が向かった方向を見つめながら、途切れない涙を流し続けているエリクに、伯爵は声をかけられず、佇んでいた。嗚咽がやむと、エリク自身が伯爵の方に向かって、歩いてきた。美しい顔の彼に涙で濡れた怨嗟の瞳で見つめられ、伯爵は思わず尻込みする。
「何故ですか。」
エリクは、静かに聞いた。
「何故、アレクサンドル様を僕から奪うのですか!!!貴方は、何も与えてくださらないのに!!!」
伯爵に崩れかかるような体勢で、彼に泣きつくエリクを、ジーナが剥がしに動こうとするが、先に伯爵が口を開いた。
「君から大切な人を奪って、ごめん。でも、彼は多くの人の大切な人を奪ったんだ。それを私は許せない。裁かせなければいけない。」
伯爵は、いつも右往左往する瞳で真っ直ぐエリクを見つめ、少年を諭すように言った。
「そんなの……そんなの、どうだっていい!!!僕には、あのひとが居れば……。」
エリクの発言に、伯爵は少なからず衝撃を受けたが、献身的に男爵の愛を求める彼に同情もし、彼の肩にそっと手を添えた。しかし、エリクは伯爵の手をはねのける。
「同情するなら、アレクサンドル様を解放してください!」
「エリク、それはできないよ。彼は己の快楽のために人を痛めつけて、何人も殺したんだ。」
「あのひとが殺人鬼だってなんだって、僕を愛してくれるなら、それでいいんだ…!」
「エリク…、」
悲痛な叫びを上げ、エリクが伯爵の大きくて軽い身体を突き飛ばす。よろめく伯爵を支えたジーナが、彼に冷えた声で言う。
「男爵は、貴方のことも殺そうとしていましたよ。」
「……それでも、いい。あのひとに愛されて殺されるなら……。」
エリクは、しゃがみこんで、泣きながらも、そう答えた。伯爵は、男爵に殺されることすら願うエリクを憐れみ、自分が彼を満たせないことを悔やんだ。
「男爵の貴方や、殺した奥方様や前の愛人、平民たちへの感情は、愛と呼べるのですか?彼はただ、自分の性的衝動や嗜虐的思考を愛と呼んでるだけでは?」
ジーナがあまりにも冷たく、エリクに向かって言い放ったので、伯爵は目を丸くした。彼女としては、純粋な疑問を言葉にしただけだったのだが。
「ふ…あはは!君のことは知らないけど、君、伯爵様…イヴァン様のことが好きなわけでもないんだろう?」
「イヴァン様は尊敬する主ですが、貴方の言う意味では好きではありませんね。」
質問を質問で返されたジーナは、素直に返す。伯爵がすげない答えに傷ついていないか少し不安に思ったが、尊敬する、と言われた伯爵はむしろ当惑しながら嬉しそうにしていた。
「ふぅん。君、今まで恋人とか居たの?誰かを愛したり、愛されたりしたことは?」
何故か余裕を取り戻したエリクは、ジーナに問いかける。ジーナは村娘としては、結婚してもおかしくない年齢に差し掛かっているが、恋人など居たこともなかった。他の村人ともあまり交流せず、毎日自分と弟妹たちの命を繋ぐのに精一杯で、恋だの愛だの考えたこともなかった。愛、という言葉を周りで聞くことも少なかったし、ジーナには全く縁遠い言葉だった。
「ありませんが。」
全く感情のこもっていない声で答えるジーナに、伯爵は衝撃を受けた。ジーナの答えは、恋人がいなかったというだけでなく、誰からも愛情を受けていないと言うものだ。伯爵は、義母や義姉からの歪な感情を愛だとは思っていないが、亡き父や、こんな自分を見捨てない執事や幼少期からの使用人たちからは愛を感じていた。自分を愛してくれる人も、愛する人もいない環境で、自分は何日生きれるだろうかと、伯爵は思った。
「そう…そうだろうね。そんな君に、何が愛かなんてわかるのかい?君には、僕たちのことなんて、分からないよ!!」
エリクは、ジーナを嘲るように言った。自分と同じ年頃だが、ただ一人の男に身を捧げているエリクを見て、ジーナは納得したように答える。
「確かに、貴方の言う通りでしょうね。私は愛というものを知りませんから。」
ジーナの答えに、エリクは拍子抜けする。彼は、彼女に感情があるのかも疑った。
「君、本当に、恋も愛も知らないんだね。」
「ええ、それよりも、私や下のきょうだいの明日の命を思う生活でしたから。」
ジーナのことを貴族の子息だと思っていたエリクは、彼女の答えに疑問符を浮かべたが、さらに問う。
「いくら食べ物があって、富があって、誰にも愛されず、誰も愛さず、君は生きてるって言えるの?」
「そんな暮らしをしたことがないので分かりかねますが……私は今、暖かい毛布の下で眠る時、毎日生を感じています。」
エリクは、彼女の言う意味が、よくわからなかった。彼は男爵と出会うまで、毎日暖かい毛布に包まれて眠っても、自分と屍の違いが分からなかった。男爵の腕の中で眠る時が、彼が一番生きていると感じた瞬間だ。
「……君のおかげで、自分の幸福さが分かったよ。僕は、もう会えないけれど…アレクサンドル様と出会えて良かった。彼が誰の命を奪って、誰を泣かせていたってどうでもいい。」
「お役に立てたようで、よかった。」
エリクが相対的に幸福を感じるのに自分の不運をダシにされたジーナだが、十分今の自分は幸福だと思う彼女は、ただ彼が伯爵に危害を加えそうになくなったことに安堵した。当の伯爵は、ジーナの今までの人生を思って、涙を浮かべている。
「君って………。……僕は、君も愛を知って苦しむことを、願っているよ。」
エリクは、呪いの言葉を口にして、主のいない男爵の屋敷に戻っていった。